「ベロニカとの記憶」

先日、朝の寝床で村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)を読み終え、夕方から銀座の映画館で「ベロニカとの記憶」をみた。このまえ村上春樹の小説を読んだのは『ノルウェイの森』それとも『ダンス・ダンス・ダンス』だったか。いずれにしてもエッセイと翻訳は別にして小説とはおよそ三十年のあいだ御無沙汰だった。
その日の小説と映画とは偶然の取り合わせだけれど、わたしには貴重な配剤だった。ふたつはともに失われた時を求めての物語、より精確には、失われた時の復元と解明を求める物語、その過程はスリリングで上質のミステリーの趣向をもつ。
高校時代、四人の男女の同級生たちと完璧な調和といえるほどの関係を保っていた多崎つくるは、大学時代のある日、突然四人から理由を告げられないまま絶縁を申し渡される。そのことで死の淵をさまようほどに悩んだかれはいま三十六歳、二歳上の恋人木元沙羅に体験を語ったところ、彼女は何が起きていたのか探るべきだと励まし、つくるも行動を開始する、というのが小説の大要。
映画は、引退して年金生活を送るトニー(ジム・ブロードベント)のもとに、見知らぬ弁護士から手紙が届くところからはじまる。そこには、四十年前の初恋の人ベロニカの母親がさきごろ亡くなり、あなたに日記が遺されたとあった。日記はトニーの高校時代の親友で、ケンブリッジ在学中に自殺したエイドリアンのものだった。かれはまたトニーとベロニカが別れたたあと彼女と恋仲にあった。どうしてその日記をベロニカの母親が持っていたのか、母親は日記をなぜ自分に遺したのか、そこには何が書かれてあるのか、トニーはこれらの疑問をそのままにしておけずベロニカ(シャーロット・ランプリング)に会いに行く。

原作は二0一一年のブッカー賞受賞作ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(土屋政雄訳、新潮社)。一九四六年生まれのジュリアン・バーンズと四九年生まれの村上春樹はおなじころ(『多崎つくる』は二0一三年刊)に失われた時をめぐる物語を書いていたわけだ。
映画の話を続けよう。
ベロニカと再会したトニーは、恋をし、別れた頃のことを語り合い、くわえて同級生たちと当時を追想する。そうするうちにベロニカや友人たちが語ったことがらと自身の記憶とのあいだに大きな隔たりがあるのに気づく。
しばしば、記憶は過去にじっさいに起きたこととおなじではない。記憶には誤解と思い込みが紛れ込みやすく、都合のよい忘却や自分を正当化するための粉飾や演出が施されるばあいもある。青春の甘美な記憶が揺らぎはじめたトニーにベロニカはつぶやく「やっぱりあなたはわかっていない」。
それはトニーの現在の姿でもある。かれの娘スージー(ミシェル・ドッカリー)はシングルマザーとして出産間近にある。娘はトニーと、離婚した妻マーガレット(ハリエット・ウォルター)の唯一の接点となってくれている。それはよいとしてもトニーはマーガレットが離婚を告げるにいたった深層を理解できないでいる。「やっぱりあなたはわかっていない」は元妻の思いでもある。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で黒埜エリがつくるに「ある種の夢はたぶん、本当の夢よりもずっとリアルで強固なものなのよ。彼女はそういう夢を見てしまった。そういうことなのかもしれない」と語る。
トニーも「そういう夢を見てしまった」のである。かれの甘美な記憶がもたらす「リアル」には「強固な」誤解と思い込み、都合のよい忘却や自分を正当化するための粉飾や演出がこびりついていた。ベロニカとの再会はトニーがそうした事情を知るきっかけとなった。かれは過去からの復讐を甘受しながら、記憶のなかに固着したものをすこしでも洗い流そうとする。そこに雨上がりの爽やかさを感じさせる気配がかすかに漂う。
飄々を装いながらも突然の心の揺れにとまどう男と、心の奥深くに傷痕を秘め、耐えてきた時間の重さを受け止める凛とした女の老境を演じたジム・ブロードベントシャーロット・ランプリングの演技は特筆に値する。
監督は本作がインド映画「めぐり逢わせのお弁当」につづく二作目となるリテーシュ・バトラ。これから要注目だ。
(一月二十五日シネスイッチ銀座