「ノクターナル・アニマルズ」

大学院生のとき結婚して二年で離婚し、二十年が経つスーザン(エイミー・アダムス)のもとに、別れた夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)から『ノクターナル・アニマルズ(夜の野獣たち)』というゲラ刷りの小説が送られてくる。
いま彼女は美術史を専攻した実績を活かしロサンジェルスでアートギャラリーを営んでいる。再婚した相手は不実で、富裕ではあるが生活は空虚な気分に包まれている。
届けられた小説は、ならず者グループの車が夫婦と十代の娘の乗る車に執拗な嫌がらせと攻撃を繰り返したあげく、妻と娘を連れ去りレイプして殺すという陰惨な物語だ。(日本でおなじような事件が起こった直後だっただけに偶然とはいえおどろいた)
といったしだいで、この映画は小説の出来事と、それを読むスーザンの現在、そして彼女と前夫との離婚にいたる経緯という三つの層からなる。(なんだか複雑そうな印象をもたれるかもしれないけれど、しっかり描き分けられているので心配はいらない。)

三つの層をつなぐのが「不穏」という低くて静かな響きだ。
小説の夫(ジェイク・ギレンホール二役)は証拠不十分で釈放された主犯の男とどう対峙するのか、その陰惨な物語を読むスーザンの心は揺さぶられる。作家としての能力に見極めをつけて別れた前夫はどうしてこの小説を届けてきたのか。そのまえに彼はどうしてこの小説を書いたのか。開花した才能を見せつけるため、あるいは復讐、それとも関係再生の願いからか。読み進む彼女の心に罪悪感と後悔がもたげてくる。これらを読み解くためには彼女とエドワードとの出会い、結婚、破局がたどられなければならない。
小説の進行とスーザンの行く末は前夫エドワードの翳におおわれている。ある日、かれからスーザンにメールが届く、「会いたい。時間と場所はきみにまかせる」。
小説と彼女の現実とはどのように交錯して結末を迎えるのか。
ファッションデザイナーでもあるトム・フォード監督(「シングル・マン」)の斬新な映像に目を凝らしながら(ただし冒頭のえぐいシーンはすこしばかり目をそらした)とてもスリリングな時間を過ごした。その結末は書けないけれど「余韻のある終わり方」と「思わせぶりな終わり方」の二つともありうる内容で、わたしのばあいはミステリーに論理的な解決を求める意識が強いので、どうしても後者に傾きがちだが、それはこの作品の瑕疵ではない。
(十一月六日TOHOシネマズシャンテ)