「ヒールは高く、スカートは短く」

和田誠さんの名著『お楽しみはこれからだ』の表紙を飾るのは「サンセット大通り」のグロリア・スワンソンのイラストで、往年の大女優の「セリフなんかいらないわ。私たちには顔があったのよ」というセリフが引かれている。セリフと顔はトーキーとサイレントの象徴であり、ここでグロリア・スワンソンは映画の推移とトーキーの時代となり出番のなくなった自身の境遇を語ったのだった。

セリフと顔。トーキーとサイレント。人間は比較や対照が大好きだ。古くはギリシア・ローマの著名人たちの人となりや言動の似た者を二人一組のセットで著したプルタルコス『対比列伝』があり、もし一人ひとりを独立させて語ったとすればだいぶん魅力は減ったかもしれない。
和田さんの本にも比較対照を含んだ名セリフは多い。硬いところでは「チャップリンの殺人狂時代」におけるヴェルドー氏の言葉「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」がある。
ソ連のミサイル、金星へ。アメリカのミサイル、フロリダへ」はビリー・ワイルダーの「ワン・ツー・スリー」で東ドイツの青年がアメリカに毒づいて言ったセリフで、この映画が公開された一九六一年当時は宇宙開発競争でソ連が優位にあった。
というふうに比較と対照を含んだ名セリフはいろいろとあるけれど止めを刺すのは「第三の男」のオーソン・ウェルズのせりふでしょう。
「イタリーではボルジア家三十年の圧政の下に、ミケランジェロダヴィンチやルネッサンスを生んだ。スイスでは五百年の同胞愛と平和を保って何を生んだか。鳩時計だとさ」。

イタリアとスイス、圧政と平和、ルネサンス芸術と鳩時計の比較対照の行き着く先には正義と悪の逆説が待っている。まさに映画の名セリフの圧巻というべきだろう。グレアム・グリーンの原作にこれらの言葉はなく、オーソン・ウェルズは自身のアイデアであるこのセリフを入れることを条件に出演を承諾したという話がある。
余談だがロバート・アルドリッチ監督「ハッスル」(一九七五年)でロサンゼルス市警のゲインズ刑事(バート・レイノルズ)が「スイスじゃたれたヒップをピンピンにしてくれる。いい国さ、盗んだ金も預金できる」と語っていた。
「ダーティ・ハリー」や「フレンチコネクション」のポパイ刑事に比べると力負けしそうなゲインズ刑事だけれど、古き良き時代のアメリカが忘れられなくて「俺の泣きどころさ、今でも"古き良き時代"を愛してる。コール・ポーター、澄んだ空気、男は女を尊敬した」なんて口にするところが魅力だ。古き良きアメリカの倫理観からするとスイスについては嫌味と皮肉のひとことを言いたくなるのだろうか。
比較と対照、最後はしゃれたもので。
ハワード・ヒューズがモデルとされる「大いなる野望」で、主人公のジョージ・ペパードが新しく社長に就任して女子社員に「ヒールは高く、スカートは短く」と訓示する。いまだと百パーセントセクハラだが、たしか「シカゴ」でも使われていたからかつては人口に膾炙していたのかなと確認してみたところ、短いスカートの相手が違っていた。
「シカゴ」のラストのレネー・ゼルウィガーとキャサリン・ゼタ=ジョーンズのショーの場面で司会が言ったのは「殺人という華麗な体験をした二人の美女が繰り広げる魅惑のショー。さあ、行ってみよう。お楽しみは長く、スカートは短く」。
スカートが短くなったところで永井荷風の句に「スカートのいよよ短し秋のかぜ」「スカートの内またねらふ藪蚊哉」がある。ともに昭和十九年秋の作で、物資欠乏の折り、スカート用の生地も不足がちだったのだろう。藪蚊と盗撮用カメラでは取り合わせが悪すぎるが、いまは藪蚊ではなく盗撮を警戒しなければならないと荷風先生が知れば何と詠むだろう。