そばがき

先日酒席でどうしたいきさつからか麺類の話題になりました。「ちかごろ、ひやむぎを食べてないなあ」「ひやむぎは小さなうどんのイメージだな」「いえ、あれはそうめんが大きくなったのよ」などと歓談するうちに、話はきつねとたぬきに及びました。
わたしは、きつねは油揚げの、たぬきは天かすの入ったそばもしくはうどんであると思っていたのですが、そんな単純な話ではないのですね。わが無知蒙昧を憐れんだ同席の美女がすぐに取り出したスマートフォーンを使ってレクチャーしてくれました。
詳述は避けますが関西ではうどんに油揚げがきつね、そばに油揚げがたぬきで、むかしこの地にはきつねそばとかたぬきうどんは存在していなかった。しかも京都には別の事情があって、葛でとろみをつけた、いわゆるあんかけの麺をたぬきと呼ぶらしい。

わたしは土佐の生まれだから大きくは関西人の範疇に入るはずなのですが、きつねとたぬきの扱いは東京人とおなじで、関西の事情はまったく知りませんでした。
こうして得難い啓蒙の一夜を過ごしていたところ、とつじょ酒席をともにする江戸っ子が、そもそも昭和の二十年代、三十年代の土佐の高知にそばがあったんですかなどと質問したものだから話が妙なことになった。
もともと愛郷心などさほど持ち合わせていないけれど、このときは抗弁しましたよ。たしかにわが家には出前をとるなじみの蕎麦屋はなかったし家族で蕎麦屋に入った記憶もない。しかしそれとそばの有無とは関係のないことがらで、料理屋やデパートの食堂にはそばもうどんもあり、田舎へ行けば太麺の田舎そばもあった。
わたしがきつねとたぬきについて東京人とおなじ感覚でいるのは、大学生となり上京してはじめて両者のちがいを知ったためで、故郷にそばがなかったためではないといったことを丁寧に説明し、さらにわが家ではよく母がそばがきを作ってくれて食べていたと話したところで、江戸っ子も事情を理解してくれたようでした。ただ、思いもよらずそばがきにまで話が及んでしまい、ここでわたしはむかし食べた母の料理が懐かしくてすこしセンチメンタルな気分に襲われたのでした。
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さいころ母はよく、きょうはお金がないから鯨のすき焼きと口にしていました。お金がないのはいつものことだったから鯨を食した機会はずいぶんと多かったはずです。その後も金のない大学生はときどき新宿の鯨カツ屋に足を運んでいて、山手線からこの店の看板が見えていたと記憶しています。やがて捕鯨は国際問題となり、反捕鯨派と捕鯨派の対立が激化してだんだんと鯨は高価で縁遠いものとなっていきました。
やんちゃで聞き分けはよくなかったけれど食べ物についてあれこれ文句をいう子供ではなかったし、母の鯨すき宣言に、なんだ、また鯨かよなんて不遜なことは思いもしませんでした。それどころか鯨のすき焼きは好物だったし、母の言葉通り家計の助けにもなっていたのだからありがたい料理でした。
もうひとつ忘れがたい母の料理にそばがきがあります。そば粉を熱湯で練って熱いうちにふうふうと吹きながら食べる。わが家ではこれをご飯にのせて、すこし醤油を落として食べたから、まあ、そばがき丼といった風情でした。

鍋にそば粉を必要分だけ入れ、除々に水を加えながらダマにならないようによくまぜあわす。水の量を調整し中火にかけ、ゆっくりと適当にねばりができるようになるまでかき混ぜる。
鯨のすき焼きとちがってこちらはそば粉を買ってくればすぐ出来るから何回か自分でつくってみたのですが、どうにもうまくゆかない。そば粉とお湯の量の見極めがむつかしく、単純な料理ほど奥が深い見本のようでもある。ダマというのはこねた際に出来るかたまりで、そばがきにこれがあると興ざめで、ところが自分でやると決まって出来てしまう。時間をかけてゆっくり溶けばよいはずで、そこのところを心がけてはいるけれどやっぱりだめでした。
母のそばがきに興ざめを覚えたことはなかったから、すくなくとも記憶のなかでは一片のダマもなく、粘り気も絶妙でした。やがてわたしは自分でそばがきをつくるの断念したのですが、母に作ってよと言いたくてももういませんので、小さいころのそばがきは失われたままです。
鯨のすき焼きとはちがい、そばがきには、きょうはお金がないからという枕詞はなくて、わたしのなかでは貧乏とそばがきは結びついていなかったのですが、のちに、じつは鯨すきではなくこちらのほうが凶年のときの備えの食糧だったと知りました。もともと備荒食品だったそばが洗練されてきつねもたぬきも誕生した次第で、その原点にあるそばがきは鯨のすき焼き以上に貧家にふさわしい料理だったんですね。でも美味しかった。
母のそばがきに何か妙手や便法があったのであれば訊いておけばよかったなと残念ないっぽうで思うのは「母の手作りの味というもの」は「どんな気むずかしい抽象家や厭世家もこれにはとろけてしまう」(開高健『最後の晩餐』)という事情です。
向田邦子『父の詫び状』には「思い出はあまりにムキになって確かめないほうがいい。何十年もかかって、懐かしさと期待で大きくふくらませた風船を自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体ないのではないか」とあります。わたしのなかにあるそばがきも鯨すきもそうしたものなのかも知れません。