「ワンダー 君は太陽」

トリーチャーコリンズ症候群は極端に垂れ下がった目、下顎短小症、伝音難聴、頬骨の不形成、下眼瞼側面下垂、耳の奇形化または不形成等として現れる、平均して新生児の一万人に一人の割合で見られ、そのほとんどは遺伝子の突然変異による、といったことをわたしはこの映画をつうじてはじめて知った。
オギー・プルマン(ジェイコブ・トレンブレイ)はこれにより顔の形が変形していて、入退院と手術を繰り返してきた。そのかん学校へは行かず在宅で学習を続けた。この生活が十歳を迎えたとき激変する。母イザベル(ジュリア・ロバーツ)が小学五年生の新学期からオギーを通学させると決断したのだ。症状が比較的安定したことと子供の発達段階を考慮して決めた結論だった。

はじめての学校生活は予想通りいじめや嫌がらせで難渋を極めた。おどろき、嫌悪、忌避、差別、あわれみ、いたわりといったさまざまな視線が集中した。それらにたいしオギーは何らかの視線を返さなければならない。彼は「スター・ウォーズ」をこよなく愛し、宇宙飛行士のヘルメットを愛用する子供だった。学校へ行くまでは他人の視線を浴びたくなければそのヘルメットがさえぎってくれた。ヘルメットの着脱をすべて自分で決められるなら視線は問題にならない。こうしてこの映画は、宇宙飛行士のヘルメットと視線をめぐる物語、自分を守ってくれていたヘルメットを脱がなければならなくなった子供の物語である。
その困難をともに引き受ける強さと優しさを兼ね備えた母、そして優しくつつんでくれる父ネート(オーウェン・ウィルソン)と姉ヴィア(イザベラ・ヴィドヴィッチ)の励ましを受けてオギーはその物語を生きた。
さまざまな視線が交錯するなかでオギーは社会性を獲得するきっかけをつかみ、周囲の人々はみずからの視線を検証し、問い直すこととなる。家族も例外ではなく、両親のオギーへの視線はいっぽうで姉ヴィアに、手のかからない娘のイメージを生み、彼女に悩みをもたらしている。
スティーブン・チョボスキー監督(脚本も)は差別と被差別、保護する者と保護される者といった二項の単純さを排して、善意と悪意の、またそれぞれの底にある複雑な心理とまなざしを重層的に取り上げた。そして、人間をどのように見るかという難しい問題を清々しく、さわやかな作品に仕上げた。上手いものだ。いや、上手いと言えば映画製作の技術に偏ってしまうおそれがある。正確には優れた思考と見識を核にした技術の上手さだ。
わが国の行政機関がつくる、差別はいけませんよと教えを垂れる公式的、類型化した啓発映画を想像してわたしは少し腰が引けていたがまったくの杞憂だった。
この作品を取り上げた「週刊文春」の映画評で芝山幹郎氏が「類型に近づくと反射的にサイドステップを切るので、安い感傷に流れることはない」と書いていて、わたしが啓発映画を持ち出したのもおなじ意味合いからだったが、その表現力の差異と自身の文章の非力にため息をついた。
(六月二十六日TOHOシネマズ上野)