「裏切りのサーカス」

エリック・アンブラーの『あるスパイへの墓碑銘』や『ディミトリウスの棺』でイギリスのスパイ小説に入門してジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』でとりことなった。だからル・カレの『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』の邦訳が出たときはさっそく書店へ急いだ。一九七0年代なかばだからずいぶんと昔のことだ。

開巻からぐいぐい読ませてくれた『寒い国から帰ってきたスパイ』と違い、この新作はごつごつした感じで韜晦を含んだ衒学的な文章が諜報の世界を覆う霧を深くしていてなかなかに手強かった。以後のル・カレはこうした作風を強めてゆく。
その『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』が邦題「裏切りのサーカス」として映画化され、しかも「ぼくのエリ 200歳の少女」で眼を瞠らされたトーマス・アルフレッドソンが監督というから待ちかねるようにして初日の第一回上映に駆けつけた。

東西冷戦下、イギリスとソ連諜報機関、MI6(サーカスの通称)とKGBは水面下で情報戦を繰り広げている。長年の作戦失敗や情報漏洩からサーカスのリーダーであるコントロールジョン・ハート)は内部に二重スパイ「もぐら」がいることを確信し東欧のスパイ網を手がかりに「もぐら」あぶり出しの作戦に出たが結果は失敗に終わり、コントロールとその補佐役ジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)は退職を余儀なくされた。
その直後コントロールが謎の死を遂げる。おなじころ東南アジア担当の諜報部員リッキー・ター(トム・ハーディ)にKGBのイリーナ(スヴェトラーナ・コドチェンコワ)が「もぐら」の情報を寄せてくる。恋仲になった二人。ターはイリーナのイギリス亡命を図りサーカス本部に連絡するが次の日に彼女はKGBの発見するところとなり連れ去られてしまう。「もぐら」の存在にもはや疑いはなかった。
事態を重く見たサーカスはスマイリーを呼び戻し「もぐら」探しを命じた。やがて対象は四人の幹部職員(トビー・ジョーンズコリン・ファースマーク・ストロングデヴィッド・デンシック)に絞られてゆく。彼らにはそれぞれ「ティンカー(鋳掛け屋)」「テイラー(仕立屋)」「ソルジャー(兵隊)」「プアマン(貧乏人)」とコードネームが付けられている。
こんなふうに書くと一直線に手際よく進行しているみたいだけれど、なかなかどうして原作とおなじくすっきりとはゆかず、いまだによくわからなくて解釈にとまどっている部分だってある。事態は錯綜し、人間関係は複雑で、時間は現在と過去を往き来する。しかしそれらは諜報の世界を描いた作品が発する魅力的な混迷であって曖昧や朦朧ではない。
七十年代の諜報戦である。かつての大英帝国の栄光はなく鈍色の陽がさすばかりだ。そのなかで一敗地にまみれたイギリス諜報機関の疲弊感は濃い。第二次大戦前のエリート学生がコミュニズムに心を寄せて転じた二重スパイにもその後の共産圏の現実は凋落の思いをもたらしているのではないか。とすればその感情はイギリスの諜報機関やスマイリーの疲弊感と通じている。
ハイテク機器などなく、スマイリーは自身の眼で現実を直視し、それと諜報部員から寄せられる情報と膨大な過去の文書を併せ、解釈、分析しながら作業を進めるほかない。真相は明らかにされても、あくまで組織内部にしかけた「張込み」であり、晴れやかさに包まれるはずもない。
ジェームズ・アイヴォリー監督「日の名残り」と響きあうような黄昏のイギリスの美しさががある。そういえばあの作品もイギリスが敵対するナチス・ドイツに心を寄せた貴族の人生が翳を落としていた。
日の名残り」の原作は日本生まれのカズオ・イシグロ、「裏切りのサーカス」は英語作品ははじめてというスウェーデンの監督。いかにもイギリスといった映画にイギリス生まれではない人たちの才能が発揮されているのが興味深い。
(四月二十一日TOHOシネマズシャンテ)
Twitterスローボート→http://twitter.com/nmh470530
《コマーシャル》
拙著『永井荷風と部落問題』。リベルタ出版より発売中です。(1900円税別)