『ヒューマン・ファクター』

ジョン・ル・カレ『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』が映画化された(邦題「裏切りのサーカス」)のをよい機会と三十余年ぶりにグレアム・グリーンヒューマン・ファクター』を新訳で再読した。(加賀山卓朗訳、ハヤカワepi文庫)

どちらもイギリス諜報部における二重スパイ事件を扱っており、キム・フィルビーの事件が意識されている点でも共通している。
キム・フィルビー。史上もっとも傑出した二重スパイといわれる。ソ連からの亡命者の証言等により二重スパイとの疑いが強まり、一九六三年にソ連へと亡命したが、それまで二十年以上にわたりスパイ活動をつづけていた。なにしろケンブリッジ出身のエリートで、MI6(サーカス)の長官候補にまでなった人物がソ連と通じ合っていたのだからイギリスの諜報機関の衝撃は大きかった。
『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』および『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』の三部作はフィルビーを連想させる二重スパイ「もぐら」を炙り出そうとするサーカスの老幹部ジョージ・スマイリーとモスクワで「もぐら」をあやつるKGBのカーラとの対決を軸としたエスピオナージュで、ここでは資本主義、社会主義ともに体制が綻びを見せようとも国家への忠誠は大前提としてある。腐った林檎がひとつあれば、そのひとつが残りの林檎もだめにする。「もぐら」という腐った林檎は排除されなければならない。
いっぽうグレアム・グリーンヒューマン・ファクター』はイギリス情報部に勤務するモーリス・カッスルが二重スパイとして追いつめられてゆく過程を描いて、国家への忠誠を第一義とする考え方に疑問を投げかけている。人間的な要素、ヒューマン・ファクターには国家への忠誠もあれば愛する家族への忠誠もある。
グレアム・グリーンはいう「〈彼(フィルビー)は祖国を裏切った〉ーそう、それはその通りだろう。しかし、われわれのうちで、祖国よりも大切な何かや誰かに対して裏切りの罪を犯さなかった者がいるだろうか」と。ル・カレとグリーンは視点も哲学も大きく異なるので読み較べると興味深い。
モーリス・カッスルはロンドンの情報部、アフリカ・セクションに勤務している。彼には南アフリカで知り合った黒人の女性セイラとその前夫の子供サムがいる。セイラはアパルトヘイトの犠牲になるところを弁護士のカースンに助けられた。カースンはコミュニストであり、妻への愛とカースンへの恩義からカッスルは二重スパイとなり、ソ連へ情報を流すようになった。
ヒューマン・ファクター』のイメージを作品中の季節描写で点綴すれば、長くつづく霧雨がやがて本降りの雨になり、雹も混じりそうな気配になり、そうして世界の終末を思わせる雪へと変わる。変わらずにあるのはかすかな光、国家への忠誠を捨てても守るべき光だった。
「つまるところ、私は人の言う裏切り者だ」というカッスルに妻のセイラは「それがなんなの」と応える。そして「わたしたちにはわたしたちだけの国がある。あなたとわたしとサムの国。あなたはその国は裏切っていないわ、モーリス」というのだった。

(懐かしい旧訳本)

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