「アーティスト」

一九二七年のハリウッド。サイレント映画のスターであるジョージ・バレンタイン(ジャン・デュジャルダン)が大勢の観客からのアンコールに応えて何度も舞台に登場する。共演した女優(「雨に唄えば」のリナ・ラモントのそっくりさんと見えた)も舞台に出たくてうずうずしているのにジョージやスタッフに止められている。舞台に出て挨拶でもされたら、観客のイメージをそこなうほどのひどい声もしくは発音のようだ。
おわかりのように、この男優と女優の光景は「雨に唄えば」のドン(ジーン・ケリー)とリナ・ラモント(ジーン・ヘイゲン)の関係を彷彿とさせる。そう「アーティスト」はサイレントからトーキーへの移行をめぐるてんやわんやをユーモラスに描いたミュージカル映画の傑作にオマージュを捧げている。
サイレントとトーキーという点では「サンセット大通り」が、またジョージ・バレンタインとペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)のラブロマンスではエルンスト・ルビッチの一連のロマンティック・コメディや「第七天国」が、往年のスターの復活劇という点では「バンドワゴン」などが思いあわされた。かわいいワンちゃんが活躍するのだが、こちらは「名犬リンチンチン」や「名犬ラッシー」を意識していたのかも。とまあ、いろいろあるのだが全体としては「雨に唄えば」の変奏曲という印象がいちばん強い。

この映画をサイレントにした意味合いや動機はいろいろとあるだろうけれど、「雨に唄えば」が無声から有声への映画のあゆみをトーキー(とカラー)で描いたのにたいしミシェル・アザナビシウス監督はおなじテーマをサイレント(とモノクロ)で描きたかったのではなかったかと想像された。
物語は凋落したサイレント映画のスターと、彼に思いを寄せるトーキー映画の新進女優のロマンス。このころ人々はスウィング・ジャズではじけ、チャールストンで揺れ、タップの音で心躍った。映画の世界は最新の風俗が反映する。こうして作品は一九二0年代から三十年代にかけての時代の風俗絵巻といった性格をもつこととなった。あのころの「アメリカン・グラフィティ」である。
映画はサイレントから出発したからまずは言葉ではなく映像だ。自暴自棄になったジョージ・バレンタインが自宅に収蔵する自身が出演したフィルムに火を付ける。一巻だけを除いて。そこには彼と無名だったペピー・ミラーが映画のなかで踊ったシーンが収められている。ジョージは彼女とのダンスであがってしまい何度か失敗した。そのテイクを含んだ一巻だ。このリールを守ったことでペピーへの愛がしっかりと語られている。映画の愛の表現に言葉はいらない。
念のため申し上げておきますが、あくまで映画における愛の表現であり、現実には言葉は大切で、そこのおとうさん、わが家は口にしなくてもわかるはずなんて思っていたらとんでもないことになりますよ。恋人、細君、愛人いずれであっても誠心誠意、言葉で表現しなくてはいけません。現実は小津映画とはちがうのですから。

ラストは復活したジョージ・バレンタインとペピー・ミラーの素敵なタップダンス。踊り終わったところで監督から「カット」と声がかかって映画はサイレントからトーキーに転換する。ひと息ついた二人に監督はもうワンテイク撮ってみよう、というのだが、それは二人への祝福であり、トーキーの世界にやって来たジョージ・バレンタインへのエールと聞こえた。ここでクレジットになるのだが、テイク2のタップダンスも見たかったな。
(四月九日シネ・リーブル池袋
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