「スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜」

映画「スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜」は政治の一面が日米を問わず色と欲をめぐる争いであることを如実に示していました。もちろんこれは政治の世界だけの現象にとどまるものではないけれど、慎ましさや謙虚さはさておいてまずは「我こそは」と叫ぶ人たちで構成される政治業界で増幅しやすいことはたしかでしょう。
むやみに政治不信を煽っているのではありません。あくまで政治の「一面」をいっているのです。もともと「我こそは」のパワー横溢する人が権力を手中にするのです。それは世の中を変えてゆく力であるとともに色と欲の追求にもってこいの力でもあります。極端には酒池肉林、後宮三千人の世界です。そうした悪の能力の発揮につながる危険性があるために、政治にたずさわる者には強い自己規律、自己抑制が求められているのです。なんだか政治学の講義みたいになってきましたので作品評価の前提となる一般論はこれまでにしておきましょう。

「スーパー・チューズデー 」では民主党予備選出馬の州知事ジョージ・クルーニー)、陣営の広報官(ライアン・ゴズリング)、キャンペーンマネージャー(フィリップ・シーモア・ホフマン)のおなじ陣営の三人がひとたびは色や欲に絡んでつまずいてしまいます。そこからかれらの生き残りをかけた抗争となるのですが、これに敵方の陣営やマスコミの記者も絡んで裏切り、裏切られのドラマが展開されます。ジョージ・クルーニー監督の語り口、運びは達者なものです。
というふうに退屈もしずに面白く観られたのですが、ドラマに厚みを欠いているのが惜しい。
具体的にいうと、三人三様の色と欲に絡んでのつまずきは銘々がある行動を選択した結果なのですが、その選択に至る過程がなんだか思いつきの積み重なりのようなチープさなのです。ある行動を選択するにあたって自己規律や自己抑制といったもうひとつの選択肢があり、それらとの葛藤があればより生彩のあるドラマになったと思われました。
政治学者の京極純一先生のことばを借りると「文明人間への第一歩は、生きていく自分とその自分を観察し制御する自分、二つの自分が分かれることである」のです。「スーパー・チューズデー 」の面々も色と欲に駆られての「生きていく自分」があり、そこのところはよいのですが「自分を観察し制御する自分」の描き方が不十分で、厚みを欠いたというのはこうした事情を指しています。。
原作は二00四年の民主党大統領予備選に立候補したハワード・ディーンの選挙スタッフだったボー・ウィリモンが、同選挙に着想を得て執筆した戯曲「ファラガット・ノース」。
(2012年4月1日松竹ピカデリー)
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