母語と母国語〜『サラの鍵』余話

『サラの鍵』にある著者タチアナ・ド・ロネの紹介には「1961年パリ郊外で生まれる。イギリスとフランス、ロシアの血を引く。パリとボストンで育ち、大学はイギリスのイースト・アングリア大学で英文学を学んだ。その後パリへ戻り、オークションハウス〈クリスティーズ〉の広報、雑誌「ヴァニティ・フェア」のパリ特派員を経て作家に。フランス語で8冊の小説を出版した。本書は母語である英語で書かれた初めての小説(後略)」とある。
イギリスとフランス、ロシアの血を引いていても母語は英語である。
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小説のサラの家族はもともとはポーランドで生活していた。そこではすでにユダヤ人の迫害、虐殺が起こっており、少女の両親はその事実を知っていた。しかし娘のサラには悪いニュースは聞かせたくないと考え話していない。ただしサラは周囲の大人が話すイディシュ語を聞き逃すまいと注意していたからポーランドで何か恐ろしいことが起きたようだとは知っていた。予兆は現実となってフランスに迫ってきていた。
ある日、夜遅くに両親が声をひそめて語り合っていた。サラは居間のドアに忍び寄り聞き耳を立てた。
「あのときの心配そうな声。母親の不安そうな表情。二人は母国語で話していて、少女はその言葉を両親のように流暢に話すことはできなかったが、意味は理解できた。父親が小声で言った。これからは万事難しくなる、慎重に、勇気を持って行動しないと。父親の話の中には、よく意味のわからない言葉がいくつも出てきたー“収容所”、“検挙”、“大規模な一斉検挙”、“早朝の逮捕”。いったいどういう意味なんだろう、とそのとき少女は思った。」(高見浩訳)
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ヴェル・ディヴ事件を取材するジャーナリストジュリアはアメリカ生まれで、夫はフランス人のベルトラン。二人は一人娘のゾーイとともにパリに住んでいる。四十五になるジュリアの妊娠を告げられて、ベルトランは、あと三年で五十歳になる、年寄りの父親にはなりたくない、いまから赤ちゃんを持つのは無理だという。ジュリアには思いがけない言葉だった。
「ピンチに陥ったときはいつでもそうなのだが、私は母国語に切り替えていた。こんなときはフランス語ではしゃべれない。」(高見浩訳)
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『サラの鍵』を読みながら「母語」と「母国語」が気になったものだから関係する箇所を上に引いてみた。母語は幼児のときに家庭で話されていた言語であり、母国語は国籍を有する国で広く用いられている言語というふうにわたしは解釈している。あくまで国籍であって、母国への思い入れや感情とかはこのさいは関係ない。たとえばチベット自治区に住むチベット人のなかには中華人民共和国に母国感情を持てない人も多くいようが、それでも国籍=母国は中国になる。かれらの母語チベット語であっても母国語はあくまで中国語となる。というふうに母語と母国語が異なる人もいる。
上の例でいえばヴェル・ディヴ事件を取材するジャーナリスト、ジュリアはアメリカ生まれでパリに生活しており家庭ではフランス語を話している。しかしむつかしい問題については「母国語に切り替えて」いる。彼女のばあいは母語、母国語ともに英語である。
他方『サラの鍵』を書いたタチアナ・ド・ロネについてはどうだろう。彼女の母語は英語とあるから英語で語り合う家庭に育ったわけだ。イギリスとフランス、ロシアの血を引きパリとボストンで育ったという彼女の国籍がイギリスもしくはアメリカならば母国語も英語となる。しかし国籍がフランスもしくはロシアだとすれば英語が母語であっても母国語は英語といえるだろうか。仮にフランス国籍だとすれば母国語はフランス語になるのではないか。
というふうに母語と母国語は完全におなじではない。
念のために「新明解国語辞典」(第五版)にあたってみたところわたしの解釈は分が悪いというか怪しくなる。
母語」については「1(外国語も話す人にとって)幼児期に最初に習得し、最も自由に使える言語。母国語。2同じ系統に属する幾つかの言語の、祖先に当たる言語。」とある。母国語については母語とおなじとされているから立項されていない。
ただし「母国」に「(外国に居る人にとって)自分の生まれ育った国」とあり用例として母国語が挙げられている。
もうひとつ「新潮国語辞典」にもあたってみたが「幼児のときに、最初に習得した言語。母国語」だから似たり寄ったりだ。            
二つの辞典はともに母語と母国語とはおなじとしている。しかし「自分の生まれ育った国」すなわち母国の言語、母国語すなわち母語という論理は『サラの鍵』のサラの両親にあてはめるとその論理はほころびを見せる。
サラの家族はもともとはポーランドで生活していた。両親の生まれ育った国、すなわち母国はポーランドだ。とすれば母国語も母語ポーランド語となるけれど、かれらの母国語はイデッシュ語と記述されている。
イディッシュ語はドイツ語の一方言とされ、特殊な高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えた言語だそうだが、実質的にはユダヤ語と考えてよいだろう。ならば両親の母国はイスラエルかといえば、この時点ではそんな国家は存在していないので国籍をイスラエルにしたくてもできない。
娘のサラはどうかといえば母語はフランス語であり、母国語はフランス国籍ポーランド国籍かで決まる。
詰まるところmother tongueの訳語が母語と母国語のふたつあることからくる問題が国語辞典の語釈や『サラの鍵』の訳書に反映されているのであり、その背景には母国を日本とする人、日本国籍保有者と日本語を話す人はほぼ重なっても、世界的には言語と国が一対一で対応することは稀であるという現実がある。この日本の特殊性が母国→母国語=母語という図式を成り立たせていると考えられる。
言語学の世界ではとっくに解決をみていることがらなのかもしれないけれど、『サラの鍵』が興味深い問題を示してくれているように思われたので、あえてしるしてみた。

*この記事を書いたあとで田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)という本に母語と母国語の問題が採り上げられているのを知りました。著者は「母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語」であり、対する母語は「国家、民族、言語、この三つの項目のつながりを断ち切って、言語を純粋に個人との関係でとらえる視点を提供している」との立場をとっています。母国語が日本的な偏差を帯びたことばであるのはたしかでしょう。著者は母+国語と述べており、わたしは母国+語と思っていました。それはともかく、こんなふうに国家、民族、言語のつながりを断ち切るという明確な立場をとっても言語にナショナリズムを結びつけるときは、日本人に限らず「母国語」感情を懐くのではと想像します。

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