世田谷文学館に進路を取れ(其ノ一)

八月十三日。本郷通りを歩いて神保町へ出て昼食をとり、古書店を覗いたあと、イソイソと京王線直通の都営新宿線に乗り込み、蘆花公園駅で下車して世田谷文学館へ向かう。ここにはたしか二00五年の生誕百年成瀬巳喜男展以来だからずいぶんと御無沙汰だった。いま開催しているのは「和田誠展 書物と映画」。そしてきょうは関連イベント、和田誠監督「怖がる人々」の上映と、和田氏とおなじくイラストレイターである安西水丸氏とのトークショーが催される。会場は一階の文学サロンと名付けられたロビーでせいぜい百五六十名ほどの定員なので、希望者多数で抽選になったそうだが、さいわい選から洩れず入場できました。

私淑という言葉を辞書で引くと「直接教えを受ける機会の無かった学者・宗教家・作家などを自分の先生として尊敬し、その言動にならって修養すること」(新明解国語辞典)、おなじく「親しくその人につかず、ひそかに模範として学ぶこと」(新潮国語辞典)とある。
つまり親しかったり面識があって直接教えていただいているのは私淑ではなく、わたしのばあいは言葉の本来の意味で和田さんに私淑してきたわけだ。これといって「修養」はしなかったけれど。
『お楽しみはこれからだ』をはじめて手にしてから三十年以上が経つ。見開き二頁に映画の名セリフを紹介しながら作品をめぐるあれこれを軽やかに語るエッセイだけでも目を瞠るのに、それに絶妙のイラストが附く。谷沢永一氏が『紙つぶて』で「書物作りにこんな新手があったかと感嘆」したのもむべなるかな、である。『お楽しみはこれからだ』全七巻はわたしの映画の道しるべだった。
映画とともにジャズのスタンダードナンバーでは『いつか聴いた歌』に道案内をしてもらって、どれほどお世話になったことか。
アーティストや作家より、和田誠のジャケットだから、装幀だからが購入の動機となったレコード、CD、本もずいぶんとあって、いろいろな世界に導いてもらった。この人を知らなかったらわたしの人生はいまよりだいぶんチープなものになっていただろう。
残念なのは和田さんのイラストレーションや絵を鑑賞するだけで、わが手でペンや絵筆で以て和田誠タッチの実践に及べなかったこと。なにしろ中学校での美術の授業で、先生(地方では名の通った方だった)が机間を廻って生徒の描きかけの絵を少し直したり、示唆を与えたりして指導していたが、当方についてはいつもニコニコして素通りするだけで、何の指導もなく、つまりあまりに下手で、不器用で直そうにも直しようがないのだった。
その頃は受験科目でもないからまあ互いに干渉せず、干渉されずでよかったが、もしも当時和田誠のイラストレーションを知っていたならば、若気の至りで和田誠タッチを狙った作品にチャレンジしたかもしれない。いまではそんな野心はないけれど。

はなしを『お楽しみはこれからだ』に戻すと、各巻の裏表紙に索引代わりに採り上げた映画の一覧が載っていて、読み終えると、自分が観た作品については印を付け、未見の作品からめぼしいのをレンタルビデオ店に探しに行く。標的があれば心騒ぎ、無ければ切歯扼腕したのも懐かしい思い出。
そんなものだからかねてより一度でよいからじっさいに和田さんに会ってみたいなあと願ってきたが、これまで機会がなく、それがきょうやっと叶えられた。嬉しかったなあ。いつもジーンズとおっしゃっているとおり、ジーンズにTシャツ、ブレザーを羽織っておられました。
寄席の世界に通じた作家で、小沢昭一桂米朝都筑道夫加藤武といった人たちが師事した正岡容は、それまで私淑していた永井荷風の来訪に感激して昭和二十一年八月二十一日の日記(「荷風断片」)にこう記した。
「崇敬廿有余年、現世拝眉を断念しゐたりし永井先生御来庵の栄に浴す。菲才不敏の作者冥利、茲に尽く。挺身力作せざる可からず」。
和田誠氏拝眉の日ゆえに思い出した次第。
安西水丸氏とのトークでは、主に水丸さんが聞き役となって「怖がる人々」のあれこれを質問するかたちで進行した。水丸氏はこの映画が大好きだそうで、細かいところまでよく観ていて、格好の対談相手となっていた。映画で子守歌が必要だったので自分で作曲した話だとか、この映画でCGを担当した若者とのちにある映画祭で出会ったので、和田さんが「きょうはどんな用で」と訊ねたところ「受賞者として来ているんです」との答え、よく聞けば「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴監督だったとか、映画のディテイルや愉しいエピソードでたちまちのうちに時間は過ぎてゆくのだった。