和田誠映画祭

アナと雪の女王」を観た。字幕版か吹替版かで迷ったが松たか子と神田沙也加の評判に惹かれて吹替版にした。
冒頭エルサとアナの姉妹が遊んでいて、エルサの魔法が誤ってアナの頭に当たり傷つけてしまう。両親が急いで森のトロールに会いに行くと、トロールの長は心ではなく頭に当たったので治すことが出来ると言って姉妹に処置を施す。
もしも心に当たっていたらどうなっていたのだろう。そこで寺田寅彦の「病院風景」という一文が心に浮かんだ。
昭和八年四月「文学青年」掲載の「病院風景」は寺田寅彦が入院中の雑感を記した随筆である。正月の休みで外には人通りがなく、冬枯れの雑草も哀れげに見え、いかめしい城郭のような図書館も柔らかで憂鬱な霧の薄絹に包まれている。そこへ頬が涙で洗われた若い女が通りかかるのを寅彦は見た。
図書館へ歩く涙の女を目にした寅彦は「からだの怪我や片輪は、直るものなら病院で直してくれる。傷ついた心、不具な理性を直してくれる病院はないものか。昔はそれがあった。それが近代の思想に倒潰した。そうしてこれに代わるべき新しい病院はまだ建たぬ」と書いている。
映画は原作とはほど遠いそうだけれど、寺田寅彦のいう「傷ついた心、不具な理性」の治療を原作者アンデルセンも思っていたのだろうか。
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東映の「惹句師」いまふうにいえば名コピーライター関根忠郎と映画評論家山田宏一山根貞男による鼎談本『惹句術』(一九八六年講談社)を再読している。

角川映画レイモンド・チャンドラーの「タフでなければ生きられない」を自社のコピーにパクったのは知っていたが、本書を読むとほかにも派手にやってくれている。「蘇える金狼」のコピーは「動く標的、撃ち落せ!」。ロス・マクドナルドのハードボイルド小説はポール・ニューマン主演で映画化されていて「蘇える金狼」に食指は動かず、久しぶりに「動く標的」を観た。パクリのコピーがパクられた作品を思い出させてくれたわけで、ま、これも一つの効用と思えばあれこれ云々するのは野暮かな。サミュエル・フラーの「映画は戦場だ」もパクられている。
「神が仕組んだ壮大なドラマ。/人類は地球を誰にゆずるのかー」(「復活の日」)。
角川映画のコピーは全地球的、全人類的な大きさを打ち出していますね。ぼくはそういうものより、もっと小さな、人間の感情のひだみたいな小さな世界が好きなんです」という関根氏の発言に共感。
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『惹句術』いよいよハイライトの「仁義なき戦い」へ。気分を高めようと買い置いたままだったBlu-ray版から第四部「頂上作戦」を観た。
広能組・打本会連合と山守組との抗争のなかで広能と打本は広島の義西会・岡島友次に応援を要請する。慎重姿勢を崩さない岡島はやがて要請を応諾するのだが、それはともかく小池朝雄扮した岡島は、ナレーションで穏健派の人格者として知られると紹介される。
ヤクザ社会における穏健かつ人格者としての岡島友次という存在はなんだかへんで、はじめて「頂上作戦」を観たとき、そのナレーションに笑ってしまった。と同時に、ヤクザ社会における人格者とはいったいどういうヒトなのか疑問に思ったものだった。
水上滝太郎の「罹災者」という小説に、仕事のウデは立つが人望のない保険会社支店長を補佐する次席の大田原三造が「『人格者』といふ多少軽蔑の意味を含むほめ言葉を社内では一身に引受けている」とのくだりがあった。まじめでお堅いだけが取り柄である。岡島の人格者も「多少軽蔑の意味を含むほめ言葉」だったのだろう。こうなると自分で言うのははばかられるが、わたしは人格者ではない。
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新文芸坐和田誠映画祭のプログラム。一日目「競輪上人行状記」「麻雀放浪記」。二日目「恋の大冒険」「快盗ルビイ」。三日目「しずかなあやしい午後に」「怖がる人々」四日目「ジャズ娘乾杯!」「真夜中まで」。
残念ながら一日目は都合がつかなかったがあとの三日は皆勤した。

三日目の和田さんと椎名誠さんとのトークショーで椎名さんが、和田さんにとってベストの映画は?という剛速球の質問を放った。それに対し和田さんは、考えながらふたりの監督の名前を挙げた。それは……ヒッチコック、どの作品とは言えないけれどこの人の名は欠かせない、それからビリー・ワイルダー、あえて一つの作品を挙げると「サンセット大通り」。
わたしの予想は「カサブランカ」か「ジョルスン物語」だったので外れてしまったけれど、たのしい瞬間予想だった。そういえば『お楽しみはこれからだ』の表紙は「サンセット大通り」のグロリア・スワンソンのイラストと「セリフなんか要らないわ。私たちには顔があったのよ」というセリフが飾っている。
今回の和田誠映画祭では「恋の大冒険」(共同脚本)とプログラムに記載のなかったアニメーション「マーダー」が観られたのが、ともにわたしのなかでは伝説的な作品だっただけにうれしい。

「マーダー」はある殺人事件の発見現場でシャーロック・ホームズふう探偵だったらどうするか、同じ場面ポアロふう探偵だったら、そしてハードボイルドの私立探偵、安楽椅子探偵、007ふうといったかたちで描写された短篇のリミテッド(動きが少ない)アニメで、『倫敦巴里』にある川畑康成『雪国』の書き出しの箇所をいろんな作家の文体でパロディとして見せた「雪国」と通じ合う。ひとつの現象をいろいろな角度から見て趣向を凝らしてゆくのは和田誠の発想法のひとつとしてよいだろう。一例を挙げると「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を星新一が書くと「国境の長いトンネル。そこを抜けると雪国の筈だった。信号所に汽車が止まる。どこからともなく一人の娘が立って来て、エヌ氏の窓を開けた」となり、横溝正史が書くと「金田一耕助のすすめで、私がこれから記述しようとするこの恐ろしい物語は、昭和十×年×月×日、国境の長いトンネルを汽車が通り抜けたところからはじまった」となるといった具合である。
余談ながら「国境の長いトンネル」は主権国家の領土の境界線ではないので「こっきょう」ではなく「くにざかい」と読むという説があるが、当否はよくわからない。
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和田誠さんの『お楽しみはこれからだ』をPART7から遡って読み始め、いまPART2に来ている。しょっちゅうお世話になりながら通読するのはそれぞれの刊行時以来で全七巻を一気通読するのは初めてだ。視聴環境の変化で、以前だったらいつか観たいなあと憧れるだけだったのが、いまはそれで済まない。チェックした作品をその都度AmazonTSUTAYAで検索して註文を出したり、お気に入りへリストアップしたりとなかなか忙しくカネもかかる。ダブりを避けるためにも手持ちの作品リストを作っておかなければいけないとこの際一念発起して作ることとした。
一九七六年刊行『お楽しみはこれからだ』PART2に和田さんは、エルンスト・ルビッチの作品は「ニノチカ」しか観ていないと書いている。淀川長治さんや野口久光さんクラスでないとルビッチは語れなかった、そんな時代である。ところがいまはルビッチの古典的作品が千円以下で購入できたりするのだからうれしい。ただしわたしがチェックした作品には四千円超のDVDがけっこうあり、これには年金老人はおいそれとは手が出ない。
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ぽつりぽつりと『聊斎志異』を読んでいる。聊斎蒲松齡による神仙、幽霊、妖狐などの一大怪異譚。訳者は柴田天馬。「原文を殆ど増減せずに、振仮名の効果を極度に利用し、できるだけ漢音を避け、直訳と意訳を兼ねた平易な文章にした」その超個性的な訳文は絶品で井伏鱒二司馬遼太郎もファンだった。
いま読んでいるのは昭和四十二年に修道社というところから上梓された版で、第一巻の月報に吉田健一武田泰淳が執筆しているのがうれしく、なつかしい。「巧妙極まる訳語を平仮名でルビの形で添えた」柴田天馬訳を吉田健一は原文を読んでいる気分になって夢中で読んだと回想している。
具体を引くと「人言の果不虚だ!」の人言に「うはさ」、果不虚に「とほり」とルビが付く。あるいは「一朶の花が、含莟未放(さきかけ)てゐた」、「もう不能制止(がまんできな)い」というふうに漢語と日本語の関係ならではのおもしろさが表現されていて、作家先生もここでは「騒士(ぶんし)」となる。