「とんでもハップン」考

ことし二月十六日に亡くなった淡島千景さんを追悼した特集上映で「自由学校」と「本日休診」を観た。いずれも松竹作品で、監督は渋谷実

「自由学校」のほうは吉村公三郎監督、木暮実千代主演の大映版もある。松竹版での木暮の役は高峰三枝子。こちらは未見だったのでようやくふたつの「自由学校」を観ることができた。ともに一九五一年(昭和二十六年)の五月はじめの週に公開されていて、競作の映画がおなじ週に公開されるのは異例なことだが双方ともに興行成績はよく「ゴールデンウィーク」という用語が生まれるきっかけになったとか。
淡島千景は婚約者役の佐田啓二とのコンビで「とんでもハップン」のアプレゲールの若者をコミカルに演じている。佐田啓二の軽薄な若者役はめずらしく、これは大泉滉が演じそうな役柄だなと観ているうちに大映版では大泉がこの役だったのを思いだした。ちなみに淡島の役はあちらでは京マチ子である。

「自由学校」の原作は一九五0年に獅子文六朝日新聞に連載した同名小説で、このなかで戦後派青年たちが口にする「とんでもハップン」が当時の大流行語となった。この「とんでもない」と「ネヴァー・ハップン」を混ぜた怪しげなことばについてかねてより疑問がある。
モダニズムが一世を風靡しカフェやダンスホールがはなやかだった昭和の七八年、当時の新しい波、ヌーベルバーグは花柳界にも押し寄せて各地でモダン芸者が輩出したという。柳橋での代表選手は当時十九か二十歳のあい子ねえさん。モダン芸者にふさわしく築地小劇場で「どん底」や「商船ティナシティ」など新劇の舞台を見ていると人気作家の吉屋信子が「ナンだい、あれは?あの子は芝居がわかるのかネ」といったとか。新劇ばかりじゃない、ダンスにも夢中で東京中のダンスホールに草履を置いてあったというし、おまけに乗馬にゴルフ、仲間うちでの会話には英語が飛び出したりといっ具合だった。
古株のおねえさん連中はびっくりで、その眼にモダン芸者の生態は共産党員とおなじで、「アカ」としか映らなかった。それを聞き知ったあい子ねえさんとその仲間は「アカだなんて、トンデもハップンだわね」と気炎をあげたという。
種村季弘による名アンソロジー『東京百話』(ちくま文庫)「人の巻」にある話で、あい子ねえさん、のちの榎本よしゑ『浮世あまから峠道』(広済堂、一九八六年)から採られている。
ここでの「トンデもハップン」はそれこそとんでもハップンではないか。戦後に流行したはずのことばが昭和七八年ころに柳橋のちょいと英語も使ってみようといったイキのいい芸者衆のあいだで口にされているのだから。 
はじめはこんないいかげんな回想記を書かれちゃ困るなあと思い、つぎには、待てよ、ひょっとしてこれは獅子文六花柳界から頂戴したことばだったのかと疑った。『自由学校』は読んでないので何ともいいかねるのだが、仮に作家の造語でないとすればなんらかのルーツがあっておかしくはなく、かつて柳橋のモダンな芸者衆のあいだで使われていたのかもしれない。
「とんでもハップン」とおなじころに流行した「さいざんす」のルーツにはふたつの説があり、ひとつは山の手の気どったご婦人の言葉遣いを揶揄したというもの、もうひとつは下町の商店の旦那やおかみさんの「さようでございますか」を省略しておもしろおかしく用いたというもの。「とんでもハップン」は花柳界に起源をもつ流行語だったのだろうか。
(四月二十三日、新文芸坐
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