シカゴの路地裏(市俄古と紐育 其ノ三)

永井荷風は『日和下駄』で「裏町を行かう、横道を歩まう」と路地裏の抒情を讃えた。この東京散策記で荷風は裏町の風景に趣を添える上から欠かせないものとして小さな祠や雨ざらしのままの石地蔵を挙げた。東京の路地裏に趣を添えるのが淫祠ならば、シカゴのばあいは古いレンガのビルと外付けの階段だろう。

一九二九年二月十四日、この街で聖バレンタインデーの虐殺と呼ばれるギャングの抗争事件が勃発した。事件はアル・カポネが指揮していたとされ、抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン一家のヒットマン六人と通行人一人が殺害された。事件は犯人たちがパトカーを使い警官に扮していたことでも大きな話題となった。
ビリー・ワイルダー監督の名作「お熱いのがお好き」では、サックス奏者のジョー(トニー・カーティス)とベース奏者のジェリー(ジャック・レモン)が聖バレンタインデーの虐殺を目撃したため、マフィアに追われるはめになり、女装して全員女性の楽団にもぐりこみ、ようやくシカゴから逃げ出し、マイアミへと向かう。そこでシカゴの路地裏を目にすると、二人のジャズマンが難を避けようとびくびくしながら裏町、横道を行く姿が思い浮かぶのだった。
この映画の舞台についてビリー・ワイルダーは「わたしたちの映画の舞台は、狂騒の二0年代(ローリング・トウェンティーズ)のシカゴとマイアミにしたよ。禁酒法とか、密造酒の売人とか、もぐりの酒場とか、暗黒街の殺しとか、フロリダの百万長者とか、ジャズとか、フラッパーなどはとてもいい背景だからな」と語っている。(シャーロット・チャンドラー『ビリー・ワイルダー 生涯と作品』古賀弥生訳)

ビリー・ワイルダーの言葉にはシカゴのイメージが集約されている。むろん現実のシカゴには政治、経済、産業、文化等いろんな要素がある。それらを可能な限りトータルに認識したいならばむかしの映画の追想は妨げとなるだろう。フィクションの世界だけでシカゴを見ていると、現実のリアルな認識からはますます遠ざかる。そうしたことを思いながら、しかしわたしは映画のもたらすイメージから離れられないでいる。