雑誌「こぺる」の終刊に思う

このほど雑誌「こぺる」(こぺる刊行会)七月号に拙稿「『高度の平凡さ』について」が掲載された。
「高度の平凡さ」は太平洋戦争の帰趨にきわめて大きな意味を持ったレイテ島での闘いをめぐって米国の歴史家フィールズが述べた言葉だ。
フィールズはいう、日本の陸海軍人の多くは勇敢であったしその勇敢と巧智を結合させた優れた作戦もあった、にもかかわらず「全体として、現代戦を戦うために必要な『高度の平凡さ』がなかった」「巨大化され、組織化された作戦を遂行するには、各自が日常的な思考の延長範囲で行動出来るのが、錯覚の生じる余地を少なくする」と。
そうした観点からすれば太平洋戦争は「日常的思考の延長範囲」からずいぶんとかけ離れたものだった。根本のところで「高度の平凡さ」を欠いていた。歴史がもたらすこの問題は戦争に止まらない。ならば「日常的思考の延長範囲」にある「高度の平凡さ」をもうすこし自身の体験に則しながら具体的に考えてみたいという思いが執筆の動機としてあった。
出来不出来はともかく、十頁の割当をいただいて過不足なく書くことができ、とてもありがたかった。

ところで「こぺる」は本年度で以て終刊となる。したがってわたしの本誌への執筆も今回が最後となった。終刊にあたってはこぺる刊行会の代表であり、雑誌の編集責任を務める藤田敬一氏の決断を本年三月の刊行会総会で諒としたとうかがっている。藤田さんは「第三の人生への出発」とおっしゃっていた。おそらく二00二年三月岐阜大学教育学部教授を退職するまでが第一、来年三月の「こぺる」の終刊までが第二、以後が第三の人生との謂だろう。
もともと京都部落史研究所の所内報から出発した雑誌であり内容は同和問題が中心であったが、やがて「日々の生活の思索の中から生み出される問題意識をふまえ、部落差別を核心に据えて、『人間と差別』を考える」を編集方針とした。雑誌の購読者だったわたしの原稿がはじめて掲載されたのが一九九五年二月号だからそれからでもずいぶんと歳月が経つ。
仕事の関係だけでいえば学校現場と教育行政で二十年近く同和問題を担当してきたわたしがなんとかもちこたえられたのは著書『「同和はこわい」考』をはじめとする藤田氏の、そして雑誌「こぺる」の言論活動が支えとしてあったことが大きい。とりわけ教育委員会事務局に勤務したときは頻発する差別事象や部落解放運動団体への対応のあり方や団体間の対立等で気落ちしたり悩んだりしたこともけっこうあったけれど、そのなかで勇気というより勇気の素をもたらしてくれた。

藤田敬一『「同和はこわい考」の十年』所収の「『こわい考』と民主主義の精神」と題した一文でわたしは同氏の『「同和はこわい」考』について次のように書いている。
〈さまざまな論点の提示もさることながら、おそらくそれ以上に『こわい考』は、部落問題についての言論の場を民主主義の精神で裏打ちしようとしたところに最大の意義があるのではないか。一方に何か言うと「こわい」という意識、他方に行政、教育の取組みや差別事象への苛立ち、双方にある立場・資格の絶対化から来る遠慮と批判の拒否、これらのことがらは部落問題の言論の場をひどくいびつなものとしていた。異なる意見に言論でもって厳しく批判するにしても、その最基底部には異論表明を歓迎する寛容の精神がなければならないと信ずるのだが、そうした雰囲気はあまりに稀薄であった。いまも同様の事情にあるのは否定しないが、しかし、『こわい考』以前と以後ではなにほどかの変化はあったとわたしは感じている。〉
これを書いたのが一九九六年。その思いはいまも変わらないというか、自身が考えていた以上にその意義は大きかったのではないかと思っている。
終刊にはまだ半年余りの間があるが、この場で藤田さんにはお疲れさまとともに感謝を申し上げ、併せて「第三の人生」の充実を願っておきたい。