本郷信楽町

本郷三丁目スターバックスで珈琲を飲みながら本を読んでいて、ふと窓の外を見ると菊坂通りの夕暮れに燈が灯った。ここから坂を下りてゆくと樋口一葉が使っていた井戸や彼女がよく通った伊勢屋質店がある。
レトロな感じの燈を見ているうちに吉田健一の『東京の昔』が思い出された。この小説は「これは本郷信楽町に住んでゐた頃の話である」ではじまる。現在の本郷は一丁目から七丁目と表示されているので、町名を確かめるには昔の地図を見なければならない。帰宅して『東京の戦前 昔恋しい散歩地図』(草思社)を開いてみた。昭和六年当時の地図だ。帝大から一高にかけて本郷通りを挟んであるのは弓町、真砂町、菊坂町、台町、森川町、駒込西片町、追分町、春木町、本富士町、龍岡町、向ヶ丘弥生町で肝心の本郷信楽町はない。
本郷信楽町。おそらくは東京の昔の残り香ただよう町として虚実のあいだに存在する、吉田健一によって創られた町だった。