『にんげん蚤の市』

一九三七年(昭和十二年)高峰秀子は五歳のときから専属として働いていた松竹を離れPCL(のちの東宝)に移った。原因は彼女の義母と松竹とのトラブルだったが、義母から許諾の返事を求められて彼女は気に染まず、金に転んだと思われるのもいやで「私がいなくなると、突貫小僧が淋しがるからね」と冗談にはぐらかして返事を渋った。
突貫小僧、小津作品でおなじみの子役、のちの青木富夫は当時は高峰とおなじ松竹専属の子役だった。
子供のころからほとばしるこの才気。一九二四年の生まれだからいまでいえば中学一年生か二年生にあたる。こうして子役として大人の世界に放り込まれ「アキアキするほど人間様を見てきた」経験は人間観察の眼の確かさをもたらした。

『にんげん蚤の市』はその高峰秀子の生前話題となった随筆集。長い女優生活のあいだに知り合い、交友のあった司馬遼太郎乙羽信子三船敏郎木村伊兵衛梅原龍三郎中島誠之助といった多士済々が「蚤の市」に相つどうから筆はおのずと人物論となる。たとえば土門拳木村伊兵衛の仕事ぶりを描いたところなど人物と作品を論じてこれ以上の比較論はあるまいと思う。
それにくわえて高峰秀子と夫ドッコイ松山善三夫妻みずからこの市に参加して夫婦の自画像を提供してくれているのも大きな魅力である。ふたりは一年に一度は静かな生活を求めてハワイにやってきては静かでない生活を繰り広げる。洗濯機が古くなったがどうするか。エイヤッだ。皿洗い機も同様。ついでに乾燥機もレンジもトースターも電気釜もエイヤッと購入する。
「どうせもうじき死ぬんだから、えーいッ、買っちまえ!」。
夫婦そろっての気前よさとヤケクソ気味がブレンドされた味覚が絶妙だ。
日本への帰国が近づいたある日「今度きたとき、バスルームの壁紙、はり替えたいわ」というと、ついでにバスタブも新調しちゃえとなる。
「いいじゃない、どうせもうじきオダブツでしょ?きれいなお風呂に入りましょ」。
そこで二人は未来のバスルームのために乾盃するのである。
一連のエッセイははじめ雑誌「オール讀物」一九九五年(平成七年)十月号から翌年七月号に連載され、のちに文藝春秋社より刊行、また二00九年には清流出版から復刻出版された。