シェルビー・スティールの本〜『白い罪』と『黒い憂鬱』

この四月に刊行されたシェルビー・スティール『白い罪』の訳書を遅ればせながら読みましたので紹介してみます。併せて『黒い憂鬱』の書評も載せました。ただしこちらは既発表で、雑誌「こぺる」一九九五年二月号に掲載されたものです。

『白い罪』
アメリカ合衆国公民権法が成立したのはケネディ大統領が暗殺された翌年一九六四年十一月のことだった。黒人解放運動の成果としての同法により人種や宗教、性、出身国による差別は禁止された。
この流れを引き継いで人種差別の積極的是正策としてアファーマティブ・アクションとよばれる黒人の大学への一定割合の優先入学やおなじく企業への就職といった特別措置が実施されるにいたった。
著者シェルビー・スティールは公民権運動の成果を讃えつつ、しかしその後のアファーマティブ・アクションに象徴される米国の人種関係はいびつなものとなったと提起してきた黒人の論客であり、日本でもすでに『黒い憂鬱』(李隆訳、五月書房)が一九九四年に刊行されている。
新著『白い罪』(徳永康政訳、径書房2011年4月刊、原著は2006年刊)では『黒い憂鬱』以降のアメリカ社会の実態を踏まえながら、人種関係をめぐる思索の跡が述べられている。
訳書の副題は「公民権運動はなぜ敗北したか」となっているが、英語では「HOW BLACKS AND WHITES TOGETHER DESTROYED THE PROMISE OF THE CIVIL ROIGHTS ERA」で、公民権運動の敗北云々ではなく、公民権のあるべき姿が、一方的にではなく、黒人と白人の関係性により壊されている現状への問題提起なのである。


黒人解放運動が盛り上がるなか、黒人は怒りを表明し、「被害者としての権力」つまり白人に贖罪を迫る立場を獲得した。白人は差別の負い目としての罪悪感としての「白い罪」を懐くようになった。本来なら「白い罪」は、アメリカ民主主義に内在してきた人種主義の反省の上に立って人種はもとより、ジェンダーエスニシティ、階級、性的嗜好性がこれまでのような差別の要因ではなく、アメリカのデモクラシーを前進させ、個人の自由、法の下の平等、機会均等などの民主主義の原理原則を徹底する力となるべきものだった。
ところが現実はそうした方向に向かわず、白人にとっては、人種差別をはじめとするアメリカの罪からは遠いところにいる、距離をおいていると見なされることが社会的成功に繋がりやすい、いわばアリバイ工作が重要視される事態が現れたのである。なかでもリベラリズム勢力は「罪から距離をおくことに価値をみいだす」(195頁)姿勢を強めてゆく。著者によれば、アファーマティブ・アクションは罪から遠いところにいると見なしてもらうための格好の材料だった。
いっぽう公民権法は黒人解放運動のありかたを大きく変える契機となった。そこで直面したのは「公民権運動が勝ち得た自由をしっかりとこの手につかみとること。教養を身につけ、スキルを磨き、起業家精神を発揮し、それでも変わらぬ差別に対しては飽くことなき攻撃を繰り返して向上していく道」と「われわれ黒人を再生させる責任を白人に過度なまでに担わせるため、これまでわたしたちを不当に扱ってきた社会に対してプレッシャーをくわえていくこと」(80頁)の選択の問題であり、運動が選び取ったのはのは後者であった。
公正さと公平性の担保から優遇措置、特別措置の確保へと大きく舵を切ったのである。
その結果、スティールは公民権運動勝利後の数十年のあいだで「あらゆる人種主義的事件が氷山の一角であり、それへの補償は一角の大きさではなく氷山のそれに釣り合わなければならい性格のもの」(51頁)として白人に無限責任を求める考え方が強くなったと分析する。これをスティールは、従来の人種偏見とは質的に異なる、社会問題の根元に人種問題を置いた「包括的人種主義(グローバル・レイシズム」)」という概念として提起する。
ティールによればこれに対置されるのがマルコムXの黒人解放論であり、彼は激烈な言葉でホワイトアメリカを痛罵したが、黒人向上のための責任を白人やアメリカの社会制度だけが担えと要求したことなど一度たりともなく、「包括的人種主義」はマルコムXの精神と自助努力に基づく戦闘性の放棄を意味するものにほかならないと主張する。
「白い罪」とポスト公民権時代における黒人解放運動の新たな潮流との結びつきは、民主主義の原理原則の徹底ではなく、罪からの距離感を重んじる白人と特別措置や優遇措置に依存する黒人を生んだ。そのうえアメリカは人種差別という最悪の部分を認めた結果、白人至上主義のもとでの「個人が責任を負うこと、一所懸命に働くこと、一人ひとりが創意を発揮すること、より大きな悦びのために刹那的な満足は我慢すること、卓越性を追い求めること、競争は実績のみによって行われること、優れた業績を成した者には名誉を与えること」(145頁)といった最善の精神的拠り所も尊重されなくなったのである。
こうしてかつてスティールもその陣営に属したリベラリズム(左翼)が主張した公正さと個人的責任を基礎とする民主主義の原理原則の徹底は、公民権法の洗礼を受けた保守勢力(右翼)の主張するところとなった。スティールはアメリカの価値観、道徳観をめぐる左右の対立をこのように見立てている。
この文脈でいえば彼の立場は「黒人保守派」となる。もっともこの立場はアメリカでは「スティグマ」(マイナスのレッテル)の記号性を帯びているという。黒人らしからぬ言動というニュアンスが含まれている言葉なのだろう。だとすれば民主主義の原理原則の徹底派と呼ぶのがよりふさわしいのかもしれない。
それはともかく、公民権法体制下のアファーマティブ・アクションとはうらはらに、アメリカ社会には所得が低い従来の下層階級とは異なる「アンダー・クラス」とよばれる、すでに長期的失業状態にあり、安定した職に就こうにも労働市場でのスキルを欠く階層の問題がある。そして「アンダー・クラス」は黒人の代名詞の様相を帯びている。
ティールのいうように優遇政策、特別措置の拡充が「アンダー・クラス」の問題の解決に繋がるとは思わないし、「教養を身につけ、スキルを磨き、起業家精神を発揮し」との訴えがどれほど実効をもたらすかも疑問である。民主主義の原理原則の徹底の考え方に則りながらいかなる施策がありうるのだろう。それともスティールはあくまで自己責任の問題として、施策の必要性は否定するだろうか。
知識や情報をもたらしてくれる書物は多いけれど、それに対して賛否や共感の度合は別に、読者のものの見方、考え方を刺激し、揺さぶる本は少ない。本書はまぎれもなく後者の一冊であり、アメリカの人種問題のみならず日本の差別問題を考えるにあたっても不可欠な一書である。


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『黒い憂鬱』
シェルビー・スティール『黒い憂鬱』(李隆訳、五月書房)は「九0年代アメリカの新しい人種関係」と副題がある。著者はサンノセ大学英文学科教授でジャーナリズムでも活躍しており、本書で全米雑誌賞、全米図書批評家賞を授賞している。
黒人である著者は一九六0年代の後半に大学生活を、七0年代初期に大学院生活を過ごした世代で、主としてその当時の自身の被差別体験を現代の黒人問題と重ねるようにして思考しながら今日のアメリカ社会の人種問題の位相を語っている。
黒人解放運動が盛り上がった六0年代、「黒人は怒りを表明し、白人は罪悪感を感じる」そうした社会意識が主要な流れとなった結果公民権法が成立しアファーマティブ・アクション・プログラムと呼ばれる黒人優遇政策が実施される運びとなった。過去に行ってきた白人の差別行為を積極的に是正しようとして大学への優先的な入学や企業への優先的な就職がなされるようになったのである。





しかしながら現状は黒人の社会的地位向上をもたらしていない。大学中退率や経済力など具体的指標を挙げながら黒人と白人との格差は広がっていると著者は診断する。どうしてなのか、差別が強まっているからか、それとも優遇政策がまだ不足しているからか。著者はこれらの議論を全面的に否定し、格差拡大の原因を追及している。本書はその追及の結果報告と規定しておいてよいだろう。
アメリカ社会にはいまなお人種差別もあれば黒人差別も残っている。だが社会進出の機会も以前と比較して相当に増大している。かつては社会進出の機会が少なく、機会の増大を求めて戦わなければならなかった。しかし現在は「機会を求めて戦うことから、機会をつかむことへ着眼点を移行すべき時が来ている」(230頁)というのが著者のアメリカ社会診断と人種問題への処方箋であり、そこでなにゆえに「機会をつかむことへ着眼点を移行」できないのか、しようとしないのかという問題が主要な議論として展開される。その主な要因として以下の二点が指摘されている。
第一に、人種的アイデンティティ固執してしまっている結果いつしか個人の責任を忘れ活力を喪失した状態に陥っていること。「愚痴を口にするだけの人種的自閉者」であってはならず「特別優遇措置ではなく、公正さによって、個人の責任とそこから生まれる力を自らのものにしようとする」(39頁)誠実な抗議者でなければならない。
第二に、過去の差別に対する賠償を求める政治活動が「被害者としての権力」を確立し、無垢である黒人は差別してきた白人に贖罪を迫る立場を獲得したこと。「被害者としての権力」とは耳慣れない概念で、その規定については次の箇所がわかりやすい説明になっていると思われる。すなわち「懐疑感と脅威を誇張して、他人にその責任を求める」(115頁)態度をいう。そしてこのことは「集団行動に参加する時にだけ活発で、個人の生活では消極的な黒人」(81頁)を多数生んだ。「被害者としての権力」を振るうためには窮状に甘んじた状態に身を置いておかなくてはならない。この状態もまた個人の自発性を蒸発させる。「被害者としての権力」という新しい概念は今後差別の問題を考えるにあたって役に立つ分析用具であると確信する。
以上の紹介で理解されるように、著者は現在のアメリカの人種差別問題の解決は被差別者の自助努力を基本とすべきであると強調する。同時に社会進出の機会均等を実現するために社会がそうした機会を多く提供しなくてはならないと訴えてもいる。自助努力を基本とし、優遇措置・特別措置にもたれかからない社会政策を構想すべきなのである。「人種とは関係なく、白人も含め、すべてのハンディを持った人々を対象にした経済的な地位向上、次に監視と制裁による人種差別、民族差別、性差別の撤廃」(171頁)、この箇所に社会政策の基本が集約されている。
差別は現代人を興奮させやすい問題であり、とりわけ本書の内容は差別の問題を考える基本となる視点を論じ、根元的に迫っているゆえに、この部分は賛成だがあの部分はどうも納得しがたいといった評価はしにくい作品であり、またそのような評価はあまり意味を持たないであろう。となれば基本的に賛成なのか反対なのか鼎の沸くが如き議論を巻き起こすのは必定で、たとえば自助努力といういとなみに向かおうとしない状態自体が厳しい差別の表れと考える人にとってはこの『黒い憂鬱』は許しがたい内容を持つ書物となるだろう。
本書は直接には人種差別について書かれた作品であるが、差別とりわけ「豊かな社会」における差別の問題を考える視点を提供する普遍性を持っている。具体的には差別と自助努力、貧困と自己責任、被差別者のアイデンティティ、差別問題解決に向けた社会政策や立法のあり方等についての基本となる態度の確立に自分自身向かわざるをえないように迫るのである。
にもかかわらず役者の李隆氏は「人種差別撤廃の決意を明確に表明したアメリカの物語を日本社会の少数者問題にそのまま適用すれば、大きな過ちを犯すこととなる」 と述べて、本書をアメリカ合衆国の黒人差別に固有の諸問題を論じた作品と読むように指摘する。「そのまま適用」するつもりはないが、名著は個々の問題を論じながら普遍性をも持つのが通例で、わたしは本書が「日本社会の少数者問題」のひとつである同和問題を考える際にも少なからずの示唆をもたらしてくれるのを疑わない。