路地(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ七)

昭和十三年秋に渡欧し、およそ一年後に帰国した野上弥生子は『欧米の旅』で「ハーグを山の手の屋敷町とすれば、アムステルダムはそこからずっと活気のある下町に出て来た思いである」と二つの都市の印象を述べている。

活気ある下町としてのアムステルダム。四通八達する運河を船が往き、ダム広場は賑わい、その周囲はトラムが走り、多くの自転車が行き交う。そして下町の魅力として忘れてはならないのが横丁、路地だ。

永井荷風は『日和下駄』で小さな祠や雨ざらしのままなる石地蔵、願掛けの絵馬や奉納の手拭を裏町の風景に趣を添えるものとして銅像以上の審美的価値があると述べた。写真はダム広場近くの路地で、荷風先生に倣って言えば、むかしながらの石畳が趣を添えている。それと瓦斯燈を思わせる骨董品屋の黄色のあかりが雨上がりの敷石道にかすかに映えているのがうれしい。

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岸の樹木(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ六)

アムステルダムの運河の岸には美しく黄葉した樹が並木をなしていた。おそらくマロニエプラタナスだろう。

久米邦武編『米欧回覧実記』が運河沿いの樹木に触れていて「水ハ地上ノ堤ヲ流レユク、岸ニハ楊樹ヲ種ユ」とある。「楊樹」は日本語辞書ではヤナギの別称とあり、中国語ではポプラ(これもヤナギの一種ではある)を指す。『米欧回覧実記』には「焔硝ヲ製スル木炭ニ最良」とあり、マッチの軸木として用いられてきたポプラを連想させるが、どうもポプラには見えない。

もうひとつ『アンネの日記』には閉じ込められた生活のなかで隠れ家の窓から見える一本のマロニエの木が花開くのを見て、将来への希望を見いだす記述がある。

運河に沿う並木、とりあえずはアンネが隠れ家の窓から見た木としてマロニエと解しておこう。

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運河の都市(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ五)

アムステルダムという地名はアムステル川に由来する。この川は市内中心部で多くの運河に分割され市の北側にあるアイ湾に注ぎ込む。中央駅を基点として放射状に張り巡らされた運河群は世界遺産に登録されている。

アムステルダムに着くと小雨が降っていた。あとで調べてみると当地の年間降雨日数は187日、ただし年間降水量の平均は915 mm、つまり降雨のほとんどが小雨や霧雨というわけだ。とくに十月から四月にかけての冬季は曇天で湿度の高い日が多い。

そんなことも知らないわたしは、おいおい着いた早々さっそく雨ですかと残念な気がしたが、賑やかなダム広場から少し離れたところで小雨にけぶる運河を眼にして、その素敵な眺めに心が洗われた。

旅情を誘うアムステルダムの夕暮れである。

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日本、オランダ、中国(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ四)

レンズ、ビール、ランドセル、ペンキ、ズック、ガラス、ゴム、カバンなどはいずれもオランダ渡来で日本語となった言葉だ。鎖国のあいだも徳川幕府はオランダとの通商は許可していて、この日蘭両国の関係は、明治維新のあとも日本人のオランダに対するイメージをよいものにした。

昔をたどると明治二年に刊行された福沢諭吉『世界国尽』には「(オランダ)国の人、皆芸学を勉め、殊に海軍は此国の得意なり。都をハアゲといふ。市中奇麗なれども、繁花ならず。国中一の交易場はアムストルドムといふ港なり」とある。

久米邦武編『米欧回覧実記』(写真は同書のアムステルダム王宮のイラスト)もオランダ人の勤勉努力を称揚し、返す刀で「蘭人ノ心ヲ以テ、支那ノ野ニ住セハ、其幾百ノ荷蘭国ヲ東方ニ生スル」とまで論じている。かつては中国人の怠惰というイメージに対するのがオランダ人の勤勉だった。

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マグナプラザ(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ三)

美しいアーチを擁した建物が出迎えてくれた。ダム広場の近くにあるマグナプラザで、王宮の裏側に当たる。もとは郵便局だったがいまはショッピングセンターになっている。眺めていると世界一高貴なショッピングセンターのような気がしてくる。

岩倉具視を団長とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢百七名で構成された岩倉使節団が明治六年二月にアムステルダムを訪れていて、その記録『特命全権大使米欧回覧実記』には、オランダは隣国ベルギーと異なり鉱物資源や建築用石材を産出しないにもかかわらず、この大都市は往くところみな石畳を敷き、広い道を整備し、大廈高楼がそびえている、じつによく努めた跡がうかがわれるとある。

使節団の一行は美しい町並みの背後にある経済力や民度の観察を怠っていない。この建物にも多くの日本人の視線が込められている。

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アムステルダム(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ二)

アムステルダムという地名は「アムステル川のダム(堤防)」を意味する。もともとは小さな漁村だったが、十三世紀にアムステル川の河口にダムがつくられて町となった。アムステルダム中央駅から続くダム広場はその中心で王宮、新教会、有名デパートなどが並ぶ。たくさんの商店が囲む広場は遊園地の機能もあり、たいへんなにぎわいだ。

空港からバスで来て、さっそく町を散策し、そのあと近くにあるアンネ・フランクの家に行こうとしたが、聞けばいつもたくさんの人でなかなか入れないそうで、じっさい同行の方で行った方がいたが狭い家に多くの人出で入場は断念したとのことだった。

街並を眺めているとスーパーマーケットがあった。海外旅行のときのスーパーでの買い物はたのしみであり、大好きなわたしはさっそく入り、オランダ人が日常口にするストロープワッフルやパン用チョコフレークを買い込んだ。

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エティハド航空機内で(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ一)

九月二十日ラグビーワールドカップ2019日本大会が開幕し、いま各地で熱戦が繰り広げられている。

日本は二十日の対ロシア戦につづき、二十八日にはこれまで勝ち星のなかったアイルランドにはじめて勝利した。数日前、ビアホールで子供と飲み、次戦で日本がアイルランドに勝てば優勝を狙えると言った。酒のうえでの大言壮語ではなく、マジな話だが、それだけ難しくもあった、その相手に勝ったのだ。夢は正夢になり、予選リーグでは全勝通過が現実味を帯びて来た。

四年前の対南アフリカ戦、日本はノーサイド直前のトライに賭けて逆転に成功した。賭けの成功は奇跡的だった。けれど対アイルランド戦は、後半の後半には日本の勝利を確信できたから快挙であっても奇跡ではない。ノーサイド寸前、インターセプトしたボールを持って駆ける福岡選手にアイルランドの二人の選手が追い、ゴールライン寸前で追いつきトライを防いだのはさすがだったが、総じて元気を失い、足が止まってきたと見えたアイルランドだった。日本が世界ランキングの上位に映るほどの盤石の勝利、横綱相撲だった。

いかん、いかん。ここはラグビーではなく旅の話だった。

前回のWCイングランド大会が開催された二0一五年の秋、わたしはオランダ、ベルギーのいくつかの都市とパリを旅した。充実した旅だった。早く記録しておきたいと思いながら手で書くより足を動かすのが忙しく、はや四年が経ったが日本大会の開幕に促されるような気分でなんとかまとめてみた。

このときの旅程は成田空港からアブダビ経由でアムステルダムへ、そしてハーグ、キンデルダイクブルージュアントワープブリュッセル、パリ、そして復路はパリからおなじくアブダビ経由で成田へ帰った。

ラグビーワールドカップの年にふさわしくエティハド航空機内では二00三年オーストラリア大会で優勝したイングランドスタンドオフジョニー・ウィルキンソンをフィーチュアした番組がプログラムに組まれていた。オーストラリア代表ワラビーズとの決勝戦で劇的なドロップキックを決めた姿はこれまでのWC史上最高のシーンだ。

いつだったか来日したウィルキンソンを見たくて国立競技場へ足を運んだが、けがで欠場し見られなかったのが残念だったことなどを思い出しながら往路も復路もこの番組を見た。

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