山車と神輿

自宅が近い根津神社はこの時期、例大祭で賑わう。山王祭神田祭とともに「江戸三大祭り」のひとつで、ことしは九月二十一、二十二の両日、町会では神輿を繰り出し、境内にはたくさんの露店が並んだ。

神社のホームページには、六代将軍家宣は幕制をもって当社の祭礼を定め、正徳四年江戸全町より山車を出し、俗に天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を執行したとあるから、昔は神輿とともに山車も練り歩いていたわけだ。

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ついでながら、辞書に、神輿は神体を安置した輿、山車は祭礼のときに引き歩く装飾した車とあるが、双方の関係についてはよくわからない。

ともあれかつての江戸三大祭では神輿とともに山車も出ていたが、いまは山車を見ない。そのわけについて、小沢信男は『俳句世がたり』に「江戸三大祭山王祭神田祭も、氏子の町ごとの山車が延々とつらなり、江戸城内へも繰り込んだという。その山車が廃れたのは明治中期から。市内電車の発達につれて通りに架線が張りめぐらされ、もはやでるにでられない」と説いている。

市内電車の発達が山車を追いやったわけだが、氏はまた祇園祭の山鉾を引きあいに京都に比較して「新開地の東京は、文明開化に従順だった」という。どうやら、東京における山車の消長と文明開化の進展と江戸っ子の気風とは相関関係にあったらしい。

もうひとつ愚考するに山車が目出度さを彩るのにたいして神輿は神体を安置するという事情がある。神体はときに上役、親分となるから崇拝、尊敬とともに陰口、噂の対象、また対立の火種となる。こうして人事が絡むとドラマを生まない山車は手放しても神輿からは離れられなくなる。

小沢一郎氏はみずからが担ぐ首相について「神輿は軽くてパーがいい」と口にしたとか。

仁義なき戦い」では山守組若頭の坂井が山守親分に「おやじさん、云うとってあげるが、あんたは初めからわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでなるのに、誰が血流しとるんや。神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや。のう!」と言い放つ。