「明治の父」のこと

佐藤雅美『知の巨人 荻生徂徠伝』につづいておなじ著者の『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』(いずれも角川文庫)を読んだ。徂徠については以前から関心はあったが小栗上野介のほうはまったく知識がなく、土地勘のないままの読書だった。
小栗は幕末にあって幕府の財政実務を取り仕切り、主戦論を唱道した。そのためフランスからの借款で戦費を調達しようとしたが失敗に終わった。
幕府の側から絶対主義国家を構想した人物というのが『覚悟の人』を読んだわたしのイメージである。薩長からすれば賊軍朝敵にあたるわけだが幕府存続の立場で近代化政策を遂行しようとした人として、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と評している。
小栗は主戦論に立っていたから公武合体大政奉還には激しく反対した。その人の目に徳川慶喜は「自己を飾ることと責任を回避することに終始した卑怯者」、大政奉還を画策する勝海舟は心がいびつな捻じ曲がりと映っていた。

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CS放送のAXNミステリーでグリコ森永事件の特集番組があった。まえにNHKが製作した作品で、興味深く視聴した。とりあげられた捜査の現場とお役所で指示を送る側とのズレや都道府県警察本部のあいだにあるセクショナリズムなどの証言に負けに不思議の負けなしの感を強くした。
疑問が残ったのは企業の扱いで、はじめ犯人側はグリコを脅迫し、やがて対象を丸大、森永へと移した、その点をどのように捉えるかの問題である。番組ではこれについてまったくといってよいほど触れられなかった。高村薫レディ・ジョーカー』が提出した犯人と企業との裏交渉の可能性は皆無だったのだろうか。
私企業が被害者となった犯罪を公共放送が取り上げるばあい、はじめから私企業の裏事情については問題としないというのであれば事件の本質を見誤らせる可能性は大きい。NHKのみならず今後検討すべき課題であり、企業も勇気をもって情報公開に努めるべきであろう。
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大逆事件連座した大石誠之助は渡米、留学経験のある医師で、堺利彦を通じて社会主義思想に関心をもち、幸徳秋水とも交流があった。かれは面会に来た堺利彦に「嘘から出たまこととはこのことだ」と語ったそうだ。
そのことを『人間臨終図鑑』にしるした山田風太郎は「一種の道楽の精神をふくんだシンパ行為が、裁判の上ではまことの謀議にすりかえられたことへの歎声」、そのことで死刑という運命だけは動かせない真実となった歎声だったと述べている。
東大、日大を頂点とする全共闘運動も考え方やイデオロギーにたいする共鳴共感よりも「一種の道楽の精神をふくんだシンパ行為」の心情気分に支えられていた。自分がそうだったから余計に強く感じるのかもしれないけれど、それはともかく「一種の道楽の精神」にとどめを刺したのが連合赤軍事件だった。
連合赤軍事件で榛名山の山岳ベースで殺された某君と麻雀を打ったことがある。かれとおなじクラスに友人がいて、メンツが足りないところに誘われた。それで某君の顔と名前を知ったが数か月後の報道でびっくりした。わざわざ雪の榛名山に出かけるような人物の印象はなく、この人も「一種の道楽の精神」から犠牲となったと思われてならない。
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一九四0年十月ヒトラーユーゲント指導部は十四歳以下の学童疎開を積極的に推進し、その数はのべ五百万人にのぼった。疎開といっても敵の砲弾を避けるのではなく、学校の影響を少なくしてナチ思想を徹底するために集団生活をさせたのである。膨大な数の青少年の政治利用は文化大革命における紅衛兵運動を連想させる。ひょっとして毛沢東ヒトラーに学んでいたのかもしれない。
對馬達夫『ヒトラーに抵抗した人々』(中公新書)には「元来ヒトラーは大人よりも青少年を重視していた(もっとも彼の心底には青少年は『取り替えのきく部品』という考えがあった)。要は彼らにナチ思想を注入しやすかったからである」とある。ここのところはヒトラー毛沢東に、ナチ思想を毛沢東思想に置き換えて十分通用する。
ヒトラーは青少年の多くをヒトラーユーゲントとしてナチス思想に染め上げ、死に追いやった。一九四四年六月フランス戦線に投入されたヒトラーユーゲント戦車師団の死傷者は六万人に及んだ。
いっぽう文化大革命も弾圧と紅衛兵間のセクト対立により多数の犠牲者を出し、また生き延びた若者たちにも精神的傷跡をのこした。左右を問わず、全体主義と若者というのは一考すべきテーマであろう。
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十月十五日から二十四日にかけてトルコを旅した。二0一四年秋につづく二度目のトルコで、セキュリティ、政情ともに不安いっぱいながらイスタンブールカッパドキアの魅力に負けてリピーターとなった。NHK BSの旅番組で、室井滋さんが「○○は二度目がたのしいっ!」とおっしゃっているのを思い出しながら成田空港からドーハ経由でイスタンブールへと向かった。(写真はガラタ橋下のレストランからイスタンブール旧市街を眺めたところ)