「イージー・リビング」〜「キャロル」の余話

デパートのおもちゃ売り場にアルバイトとして勤める十九歳のテレーズはお客のなかに優美と華やかさを併せ持つ女性を見て心惹かれる。
パトリシア・ハイスミス『キャロル』の冒頭のシーンで、まもなくテレーズはそのキャロルという美しい人妻と交際するようになる。
ある日、訪れたキャロルの家でテレーズの知らない曲が流れていた。
「さっきかかっていたのは何という歌ですか?伴奏がピアノだけの」「歌ってみて」テレーズが口笛でさわりを吹くと、キャロルは微笑んだ。「『イージー・リビング』ね。古い歌よ」(柿沼瑛子訳、河出文庫
トッド・ヘインズ監督で映画化された「キャロル」でもレオ・ロビンが作詞し、ラルフ・レインジャーが作曲した同曲は用いられている。ここではテレーズのお気に入りの曲となっていて、まずは彼女がキャロルの家にあるグランドピアノで弾く。そうしてクリスマスプレゼントとして贈ったLPレコードにキャロルが針を落とすとテディ・ウィルソン楽団の伴奏でビリー・ホリデイが歌う「イージー・リビング」が再生される。

Living for you is easy living
It's easy to live when you're in love
あなたのために尽くす生活こそがわたしのやすらぎの生活・・・・・・キャロルには夫と幼い一人娘が、テレーズには恋人がいるけれど二人の現実の生活はやすらぎの状態にはない。
こうして「イージー・リビング」は小説でも映画でも重要なアイテムである。なじみのアーティストによる素敵な曲がこんなふうに用いられているのはうれしい。
小説では歌手もピアニストも明示されていないが、映画では具体性が求められるから「ビリー・ホリディ+テディ・ウィルソン」というLPレコードのジャケットが映っていて、こういうところに映画と小説の違いを見るのはおもしろい。
「キャロル」は一九五二年当時の物語だが、ビリー・ホリディの「イージー・リビング」は一九三七年に録音されており、有名な「奇妙な果実」のコモドア・レーベルに移る前、ブランズウィックから発売されている。
この曲を吹き込んだ頃、彼女はレスター・ヤングと同棲生活にはいった。二人の「イージー・リビング」である。もちろん伴奏陣でテナー・サックスを受け持ったのはレスターだった。
ビリーはレスターに「プレス(プレジデント)」のニックネームを、レスターはビリーに「レディ・ディ」の愛称をつけた。そのプレスことレスター・ヤングテディ・ウィルソンによる「プレス・アンド・テディ」はわたしをジャズに誘ってくれたいくつかのアルバムのなかの一枚、そして長年聴き続ける愛すべき名盤だ。
テディ・ウィルソンベニー・グッドマンらとともにスイングジャズの一時代を築いた名ピアニストだが、ビリー・ホリディの「イージー・リビング」ではピアニスト兼楽団のリーダーだから小説の「さっきかかっていたのは何という歌ですか?伴奏がピアノだけの」には当たらない。パトリシア・ハイスミスの念頭には具体にピアノだけの伴奏で歌われた誰かの「イージー・リビング」があったのだろうか。