雨の日のジャズボーカル

雨の午後。先日ずいぶんと骨組の強い折り畳み傘を買ったが、これの初お目見えで上野のスターバックスへ向かい、テーブルについたところでダウンロードしておいたSue Raney のアルバムSongs For A Raney Dayを聴いた。雨にご縁のあるスタンダードナンバー十二曲を収めていて、歌手の名前とrainyが掛け言葉になっている。雨の日にコーヒーを味わいながら聴くにはうってつけで、心がなごんだ。

一九四0年生まれのSue Raneyが五九年にリリースしたこのアルバムに続いてはBeverly Kenneyのコンピレーション盤を聴いた。
この二人の美形ジャズシンガーは何十年かまえ、ほぼ同時期に知ったから、わたしのなかでは対になっている。ともにビッグネームではないが隣のお姉さんっぽい愛らしさを具えていいて、30センチLPの紙ジャケットで持っていたい歌手だ。
スー・レイニーはお元気の由だが一九三二年生まれのビヴァリー・ケニーは六0年に若くして亡くなった。ネットにある「トミー・フラナガン愛好会」という専門的なブログによれば、彼女の死因は従来寝たばこが原因のホテル火災による焼死とされていたが、研究の結果の真相は、離婚した両親とマネージャーに宛てた遺書を残し、睡眠薬と酒を服用しての自死だった。
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「アルゴ」の録画を観て、ついついアントニオ・メンデス&マット・バグリオの同名原作本(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、真崎義博訳)を手にした。
大筋は映画でわかっているので細部に目が向きやすく、映画でジョン・グッドマンが扮した「猿の惑星」のメークアップで知られるジョン・チェンバースはもともと負傷兵のために義眼や鼻を作っていたとか、架空の映画「アルゴ」のためのオフィスはサンセット・ガウアー・スタジオに設けられたが、ここを確保できたのは「チャイナ・シンドローム」の撮影が終了した直後だったからで、このスタジオはフランク・キャプラ監督「スミス都へ行く」を生んだコロンビア映画の元敷地だった、といったディテイルがおもしろい。
また同書でカナダ大使邸の「客人」となったアメリカ大使館員の一人がジョン・ル・カレのスパイ小説を読みながら、民族衣装を着て人混みに紛れ込み、歩いて国境を越えパキスタンに入る、あるいは隠しておいた車でトルコ国境向かうといった脱出プランを空想していた。イランの軍隊にいつ捕らえられるかもしれない状況でル・カレの本を読むのはタフだな。
アメリカ大使館が襲撃され、ホメイニのイスラム革命を前にした状況をカーター大統領は「イランには通常の外交戦略ー国際社会の圧力やならず者国家の烙印を押すという脅しーがまったく通用しなかった」と回想している。またワシントンの外交官たちにとっても「それは、まるで違う星の人間を相手にしているかのような事態」だった。
爾来三十数年が経過したが「まるで違う星の人間」の違いの度合はますます増している。
『アルゴ』は「昨今のほとんどの映画は、興行収入によって成功か失敗かが判断される。私たちの架空のSF映画は一セントにもならなかったが、私は映画史上もっとも成功したものだと思っている。なんといっても六人の人命を助けたのだー実在しない映画の収穫としては悪くないのではないか?」と結ばれる。ISの問題はどのようにして結ばれるのか。
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昨年ようやく原田熊雄述『西園寺公と政局』を読んで、引き続き立命館大学編『西園寺公望傳』(ともに岩波書店)に進んだが、これがむやみに難しく、漢字カナ混じり文語文の史料にお手上げだった。
西園寺公望傳』第二巻、フランスで法学を学んだ西園寺は法典調査会の幹部として民法や商法の編纂や審査に携わったが、こうした問題に殆ど関心のないわたしに漢字カナ混じり文語文の史料がドドーンと迫って来て、暗礁に乗り上げた気分を味わったが、さいわい大正、昭和期になるとだいぶん読みやすくなった。
このことに関連して井上ひさし半藤一利丸谷才一「昭和史は誰でも参加できる歴史研究」という鼎談(丸谷才一『膝を打つ』文春文庫所収)に、丸谷さんが、昭和史の人気の理由の一つに文献が読みやすい、磯部浅一の書いた檄文や原田熊雄の日記などは読んでスラスラわかる、と言うと、井上さんが、それが最大の理由と応じるくだりがある。
とすればわたしの昭和史への関心は読みにくい文献を遠ざける、すなわち学力不足が然らしめたものだったのかと苦笑を禁じ得なかった。
話題は変わるがさる六月十四日白川由美さんが七十九歳で亡くなった。さきほどの『膝を打つ』に収める藤沢周平井上ひさし丸谷才一による鼎談「東北人であること」で井上ひさしが「僕は山形の東置賜郡川西町と言うところの生まれですが、僕の家の右隣りが白川由美のおかあさんが出たとこなんですよ。それでお盆になると、白川由美がくる。そりゃもう色白の透き通るような美人でした」と語っていた。
井上ひさしが仙台一高に通っていたころ隣町の宮城県第二女子高校に美貌で評判の生徒がいて、中退して若尾文子という女優になった。隣家や隣町に白川由美若尾文子がいたりするから、やはり東北は美人の産地かと思ったが、若尾文子は東京生まれ、父親の仕事の関係で宮城に疎開していたのだった。
ついでながら井上ひさしは港が美人を産むと説く。たとえば岩手県の釜石には美人が多く、江戸時代に中国とかメキシコとか、そういうところの人が流れ着く、そして雑種優性の法則により美が生まれるというわけ。そういえば函館、神戸、長崎・・・・・・美人がたくさんいらっしゃるような気がするね。
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角川シネマ有楽町で本年度アカデミー賞長編ドキュメンタリー受賞作品「AMYエイミー」を観た。二0一一年七月二十三日に二十七歳の若さで亡くなったイギリスの歌手エイミー・ワインハウスのドキュメンタリーである。
なじみのない歌手だったにもかかわらずぐいぐいと引き込まれ、明かりがついたときには優れた映画を観たあとの独特の疲労感を覚えていた。
エイミーは歌手として成功するいっぽう、しばしば過激な発言やスキャンダルで注目を浴びた。その生涯を「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」のアシフ・カパディア監督がひたむきに、緻密に追っていて、その姿勢に多くの関係者が心を開き率直な言葉を発したように思った。

デュエットしたトニー・ベネットが「エイミー・ワインハウスエラ・フィッツジェラルドやビリー・ホリディと肩を並べられるジャズ歌手だった、あんなに生き急がなくても生き方は人生から学べたのに、長く生きれば」と語っていた。
破滅型で生き急いだエイミーの人生。破滅型には及びもつかないわたしは彼女を悼み、ため息をつくほかない。
エイミーは自身の努力の成果の輝きをさらに磨く生き方ができず、成功の重圧は彼女に重くのしかかった。その繊細さを紛れさせたのがドラッグだった。なぜか成功した女のまわりにはろくでもない奴が群がりやすく、エイミーのばあいもドラッグの世界へ誘ったイケメンの恋人、成功の報酬を貪り食う父親やマネージャーなどがいた。
映画から帰宅してこの七月七日に死去した永六輔さんの追悼番組を見た。「夢であいましょう」や「バラエティ・テレビファソラシド」などいずれもなつかしく、嬉しいことに後者には頼近美津子さんの映像があった。頼近さん、可愛かったなあ。大好きだった。
残念ながらNHKからフジテレビへ移籍してからの彼女の姿は、そのころ生活していた高知でフジ系列の放送がなかったために見ることが叶わなかった。
フジサンケイグループの御曹司と結婚してテレビ界から引退、その夫君の死去後復帰したが、わたしは殆どテレビを見なくなっていた。そして二00九年五月十七日の訃報。五十三歳の若さだった。
「エイミー」のあとだったから頼近さんの人生も生き急いだと見えた。
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林達夫の「みやびなる宴」という一文が気になってならない。
ここで著者は、ワトーに「みやびなる宴」という絵画があり、ヴェルレーヌに同名の詩集が、またその詩集の中の幾つかの詩をドビュッシーが歌曲としていると紹介したうえで、いずれも「フランス芸術史を学んだ者には知られた事柄であろう」「フランス的優雅のいかなるものなるかを感得するには、人は何よりもまずこの三人の芸術に赴くのが捷径であり、あるいはそれへ赴くだけで既に十分であるとも言える」と述べる。
「みやびなる宴」は副題に「一つの招待」とあって、はじめて読んだとき、いずれ時間のあるとき絵画を観賞し、詩集をひもとき、楽曲を聴いてみようと思った。それはよいが、困ったことに最初に読んだのは二十代だから四十年にもわたってペンディングのままであり、閑人の特権を行使できるいまになっても「一つの招待」に応じていない。
退職後フランスへは二度旅をしたけれど「フランス的優雅」にはまだ遠い。