関東大震災から百年

はじめて社会人になった年の夏だったから半世紀以上まえのこと、軍隊経験のある職場の大先輩が、せめて八月だけは「あの戦争」について考え、読み、見るようにしていると語るのを聞き、その真摯な態度を自分も見習いたいと思った。そこでことしの夏はさきごろ読んだ角田房子『責任 ラバウルの将軍今村均』(ちくま文庫)を復習し、新たにおなじ著者の『一死、大罪を謝す』(新潮文庫)を手にした。敗戦時の陸軍大臣阿南惟幾の伝記である。

『責任』から受けた今村の印象は表題通りの責任そして見識のある軍人だったが、あくまで戦後を見通した後世の目に映ったイメージである。それとは別に同書には同時代の、とりわけおなじ陸軍軍人の批判的なまなざしがどのようなものだったかが記述されている。

《「軍人としては宗教書、哲学書などを読みすぎた」「彼の思考はしばしば軍人の域からはみ出していた」などといわれ、一部には「個人としてはまことに立派だが、"帝国陸軍"という特殊な体質を持つ大組織の指導者としてはちょっと疑問がある》《あまりに先の見通しがいいためか、彼の意見はしばしば周囲の者に水を浴びせられたような思いをさせる。理性的すぎるのか……、とにかく軍中央ではあまり人気のあるほうではなかった。従って、人身掌握に問題がある」という声もある》。軍人としての今村均にはこうした批判があった。

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角田房子『一死、大罪を謝す』読了。阿南惟幾についての知識はないが、ただ、やれ特攻だ、人間魚雷だとぶち上げて若者を死なせ、責任を取らないまま戦後を生きた連中とは一線を画した人物だったとのイメージはあった。

本書には史料として阿南の日記と大本営の日誌が扱われている。

阿南惟幾は開戦の日の日記に《一一・四五、宣戦ノ大詔ヲ下シ給フ。東条首相ノ決意披瀝、十五時再ビ陸海軍人ニ詔書ヲ拝ス。一死奉公ノ時到ル、天機奉伺ノ電ヲ奏ス》と書いている 。

おなじく昭和十八年九月八日、イタリアが無条件降伏を声明、三国同盟の一角が崩れた日の日記。《予期ノ段、アヘテ驚クニ足ラズ》

同年十月阿南はニューギニア戦線に転出、大本営第二十版の日誌には《阿南将軍ヲ対米第一線ニ推戴スルニ至ル。皇軍歓喜ナリ》とある。

角田房子はこれらの史料については慎重な心構えと考え方を要すると説いている。

陸軍幼年学校の生徒たちは入校したときから「予」という一人称で日記を書き、それを提出することを義務づけられる。十三歳の少年ながら「僕の日記」でも「私の日記」でもなく、名実ともに「予ノ日記」でなければならない。それは年齢に応じた観察や哀歓の心情を率直に綴るものではなく、日々の行事や講話などの記録と、それについて《こう書けば学校の教育方針に添うだろう》と幼い頭からひねり出した「模範的感想」とを書きつらねるものであった。軍という組織はすべて「建前」の世界だが、その「建前教育」の第一歩がこの日記だった。

阿南は一九三四年(昭和九)八月に東京陸軍幼年学校長に就いていて、すべての生徒の日記つまり「予の日記」にしっかり目を通したという。

旧軍人の一人は《生徒のころの私は、日記に嘘ばかり並べて書くのが非常に苦痛だった。この義務から解放されて以来、私は二度と日記というものを書いたことがない。子供の時から〝建前〟で書く習慣をつけられたので、もう本当の日記は書けなくなっている》と語っていて、角田房子は阿南をはじめ軍人の日記を読むときに思い出すべき言葉であり、《殊に戦死などが予想される立場では人に読まれてもよいように、日誌の文面は一層立派になり、内心は一層隠される》と論じている。歴史を読むときの貴重な心覚えである。

もうひとつ『一死、大罪を謝す』にあった唖然とする話。

《信じがたい話だが、十八年に陸大入試を受けた人は「試験問題は対ソ戦術ばかりだった」といい、十九年に士官学校の教官を勤めた人は「それまで全く研究していなかった対米戦術を、いきなり生徒に教えろと命じられて困惑した」と語る》

《昭和十四年から十五年にかけて参謀次長の要職にあった沢田茂は、「太平洋戦争開始のころもその後も、陸軍首脳のアメリカ認識はゼロに等しかったといえる。豪北や比島、沖縄の戦いでアメリカの物量作戦に押しまくられたが、中でも土木工事―つまり機械化された工兵の力には全くかなわなかった。アメリカの兵器の研究など、ほとんど出来ていなかった」と語っている。》

ピンからキリまでの支那通はいても陸軍にアメリカ通はいなかったのではないか。敵を知らないから蛮勇発揮で対米戦争に意気軒高だったとさえ思う。ちなみに山本五十六はハーバードに留学していた。

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広く世界のラグビーに精通し、長らくJスポーツのラグビー番組で解説を担当していた小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが九月一日心不全で亡くなった。わたしよりひとつうえの七十五歳で、近ごろあまり出演がないなと思っていたところに届いた訃報だった。昨年パリで催されたラグビーワールドカップの放送で一度だけスタジオ解説をしておられるのを見たが健康を害されている印象だった。

およそ四半世紀前の八月。Jスポーツ、当時のスカパーがニュージーランド航空とタイアップしてオークランドでのラグビー観戦ツアー(オールブラックスvsスプリングボクス)を企画したことがあり、矢も盾もたまらず、さほどラグビーに関心のない妻と当時院生と大学生だった二人の子供もいっしょにさっそく応募した。

ツァーの案内役は小林深緑郎、村上晃一のおふたりで、テストマッチ当日はオークランドのイーデンパークでわたしたちは観客席、お二人は実況の解説をされていた。ラグビー専一の小規模なツアーなのでずいぶん両氏を交えてラグビー談義をした。案内していただいたオフィシャルのお店やアウトレットでのジャージの買い物が楽しかった。

ほどなくして子供たちは社会人となり、これが家族四人で行った唯一の海外旅行となった。

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三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)』を読み終え、池井戸潤『俺たちの箱根駅伝』(文藝春秋)に取り掛かった。わたしにしてはいまどきの本が続く。いつもながら池井戸潤はぐいぐい読ませてくれる。ひとたび負け組とされた者たちの再生と勝利に向けての跳躍が読者を刺激する。

『俺たちの箱根駅伝』でフィーチャーされるのは学生連合チーム。といってもオープン参加の扱いで記録に残らない。何位になろうとも、何位相当とされるだけで、その順位は幻とされる。そうしたチームが箱根駅伝で波乱を巻き起こそうとする。

「ここのところ学生連合チームは最下位争いの常連だ。どうせ今年もダメだろうと、日本中の箱根駅伝ファンがそう思ってる。その予想通りの結果を受け入れるのか。負け犬になるのか──。冗談じゃない。我々は違うんだということを世の中に見せてやろうじゃないか。見返してやるんだ」。モダンな講談が心を揺さぶる。

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池井戸潤『俺たちの箱根駅伝』上巻を快調に読破し下巻へ。いよいよスタートの号砲が鳴る。いつものとおり勧善懲悪仕様で、作者はここで敵役東西大学平川監督に、学生連合の甲斐監督相手に、しっかり失礼と嫌味をかまさせる。「三位相当以上が目標だってな」「ビジネスマンのはったりかよ。箱根、舐めんなよ」

こうして活字による駅伝の実況が中継される。これに監督、選手、中継スタッフの心理描写が加わるのだから堪らない。トップが入れ替わろうとしているときコマーシャルを打ったりするとしらけるので多少はコマーシャルをずらしたりもする、といった中継の裏話もある。ほんとでしょう、たぶん。

「体を揺らすな。心を揺らすな」「どこでどう走るかーその走り方に絶対の答えはない」「適切なペース配分、仕掛けどころはレースの状況によって変わる。同じ走りが正解にもなり、ミスにもなる」「それは人生にも通じる」。

いっぽうに「絶対」の勝利法はない、しかし「絶対」を信じられない者は負けると語ったラグビーの名将がいた。

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ことしの九月一日は、一九二三年(大正十二年)のこの日に起きた関東大震災から百年の節目に当たっていた。ふと思いついて震災に触れた芥川龍之介の随筆を拾い読みしてみた。

《震災以来の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶ってしまった。その代りにどこもカッフェだらけである。僕等はもう広小路の「常盤」にあの椀になみなみと盛った「おきな」を味うことは出来ない》

《僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植っていた、汁粉屋の代りにカフェの殖えない、もっと一体に落ち着いていた、 あなたもきっと知っているでしょう、云わば麦稈帽はかぶっていても、薄羽織を著ていた東京なのです》

しるこ屋からカフェへと、時代の推移の一筆書きである。

永井荷風「銀座」に《銀座界隈には何という事なく凡ての新しいものと古いものとがある。一国の首都がその権勢と富貴とに自から蒐集する凡ての物は、皆ここに陳列せられてある》と書いていて、流行の帽子や遠い国から来た葡萄酒と昔ながらの銀座の柳やしるこ屋とが調和していたのを窺わせる。その調和が破れたのが百年前の九月一日だった。

それでも芥川には、思慕と追憶の対象としての大川があったのを慰めとしよう。

《自分はどうしてこうもあの川を愛するのか。あの何方かと云えば、泥濁りのした大川の生暖い水に、限りない床しさを感じるのか(中略)昔からあの水を見る毎に、何となく、涙を落としたいような、云い難い慰安と寂寥とを感じた》。

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芥川龍之介の随筆を読んだあともうひとつまえの東京を探っていると里見弴『君と私』(中公文庫)に《月の晩、明石橋の袂から月島へ渡って、海の風に吹かれながら長いあいおい橋の上に佇んだ。それから深川へ出て、木場のなかを桧の高い香を嗅いで歩いたり、洲崎のほうへ出たりした。夜おそく猪牙舟で乗合の若者の女話などを聞きながら、ゆさゆさと仲橋の方へ運ばれて行った》とあった。 雑誌「白樺」が創刊された明治四十三年(一九一0年)当時の水の東京風景であり、 里見と志賀直哉の散歩の記述で、このあとに「五、六時間くらい続けさまに歩いていることは珍しくなかった」なんてある。お二人の長命にはきっとこの散歩が作用していたのではないか。

ついでながら東京散歩を詳細に記した『日和下駄』の著者永井荷風もトレーニングなど意識になくても知らずしらずのうちに散歩という運動をしていて、齢八十はその賜物だったと推測している。

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九月十六日。歌舞伎座夜の部。演目は「妹背山婦女庭訓」と「勧進帳」。前者は外題と作者のひとり近松半二の名前は知っていたが内容は知らなかった。えらく柄の大きい、家同士の不仲と若い男女の恋愛模様が絡むロミオとジュリエットを連想させる大作だった。「勧進帳」のあとは銀座のビアホール。ビールが心と身体に沁みた。

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九月十七日。十両の土俵入りから結びまで相撲観戦。ビールを飲みながら相撲を見るしあわせ。

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十両では尊富士の元気に、そして三役の相撲では真っ向勝負で琴桜を破った宇良に大拍手。低く当たった宇良は琴桜を下から押し上げてズルズルと後退させ、大関はほぼ何もできないまま一方的に押し出された。

打出し後は両国駅構内の蕎麦屋さんで一献。

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某日午後。暑くてジャズを聴く雰囲気にない。そこで、ちあきなおみ高橋真梨子のカヴァー楽曲を聴きまくった。久しぶりの、ちあきなおみカスバの女」よかったなあ。オリジナルは昭和三十年、エト邦枝が歌っているがそのころわたしは五歳だから歌うには早すぎる。その後、昭和四十二年に緑川アコがリバイバルヒットさせていて、このときだっただろうな、口ずさむようになったのは。

二0一四年にモロッコを旅し、そして二0一九年にチュニジアに行った。モロッコチュニジア、それから未踏の「ここは地の果てアルジェリア」、わたしがこれらの国をはじめて意識したのは「カスバの女」を通じてで、これに映画「望郷」と「カサブランカ」が重なった。

こうしてモロッコチュニジアアルジェリアはアフリカにありながらヨーロッパの延長というかヨーロッパの場末、吹き溜まりのイメージである。フランスへのあこがれの延長線上にフランス領アフリカがある。イギリス領の南アにはそうした雰囲気は感じない。

岡本かの子が「異国食餌抄」に《アペリチーフは食欲を呼び覚ます酒──男は大抵エメラルド・グリーンのペルノーを、女は真紅のベルモットを好む。新鮮な色彩が眼に、芳醇な香が鼻に、ほろ苦い味が舌に孰れも魅力を恣にする》と書いていて、読むとフランスにあこがれた詩人の心情に近づいた気がする。

寺田寅彦は「コーヒー哲学序説」で留学したときのパリに触れている。

《パリの朝食のコーヒーとあの棍棒を輪切りにしたパンは周知の美味である。ギャルソンのステファンが、「ヴォアラー・ムシウ」と言って小卓にのせて行く朝食は一日じゅうの大なる楽しみであったことを思い出す》そして《マデレーヌの近くの一流のカフェーで飲んだコーヒーのしずくが凝結して茶わんと皿とを吸い着けてしまって、いっしょに持ち上げられたのに驚いた記憶もある》と続けている。

いずれもフランスへのあこがれをかき立てる。そうしてこれに仏領アフリカの魅力が加わる。そこに「フランス的幻惑」(林達夫)があるのはわかっていてもフランスのイメージは変わらない。。

そうそう、別件ながら高橋真梨子のカヴァー曲「夢の途中」はボサノヴァふうのアレンジを活かした名唱です。

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菊池寛『読史余録』の「浪人」に、慶長元和以来、浪人の数は増え江戸へ殺到した、彼らのなかには、大名屋敷へ押しかけ、永々浪人し生計に窮したから切腹するゆえ玄関を拝借したい、と云う者まで現れたという話があった。はじめは真剣な武士気質から出たものとされたが、やがてゆすりによる金欲しさの手段ともなった。

そして《ある日、井伊掃部頭の屋敷へそうした浪人が来た。赤備えの勇武未だ衰えざる井伊家であったからたまらない。望みに委せ玄関先を貸そうと云って、浪人を捕えて切腹させてしまった。こんな事が二、三あって、諸侯へ浪人が推参することが絶えたと云う》。

江戸時代の随筆に見えていたのだろう。そしてこの話をもとに滝口康彦が小説『異聞浪人記』を書き、橋本忍が脚本を担当し、小林正樹が監督、仲代達也が主演した映画「切腹」(公開は一九六二年)とあいなった。なお仲代達也の津雲半四郎が井伊家の江戸屋敷に現れたのは寛永七年十月だったから一六三0年のことだった。

もうひとつ菊池寛「炉辺雑和」に《近藤勇のこの頃の人気は素晴らしい。大衆的人気の上で維新の三傑などは、蹴飛ばしているから愉快である。後代の人気と云うものは、その時代を作った人に集らずして、その時代に殉じた人に集るようである》とあった。昭和四年一月「講談倶楽部」が初出だから当時近藤勇のブームがあったと知れる。また近藤勇坂本龍馬の人気の根っこにはおなじ心情のあることが窺われる。

これにつづけて菊池寛は「徳川時代から明治に於ける民衆的人気は、真田幸村木村重成、後藤基治、乃至は加藤清正など前代に殉じた人の上に集まっている。源義経の人気などもそうである」と述べている。維新の三傑、西郷・木戸・大久保では西郷の人気が圧倒的であるのも武士の遺風に殉じた事情が作用している。