登仙の如く(伊太利亜旅行 其ノ五十一)

十八世紀末ナポレオンの占領によりヴェネツィア共和国は崩壊した。オスマン・トルコとの戦いに疲弊し、経済危機やペストの大流行がかつての繁栄の花をしぼませた。詩人バイロンはこの都市の痛ましさを哀傷感をこめて「運河のほとりに立ち並ぶ館は徐々に色褪せていく、今や妙なる調べが絶えず耳を驚かすこともないあの日々は過ぎ去った、ただ美しさだけを残して」と詠んだ。
MJQ(モダンジャズカルテット)の名盤「たそがれのベニス」を聴くと、きまってバイロン卿のフィルターを通してヴェネツィアを想像した。
そのヴェネツィアにはじめて立ったのだが、旅の興奮もあってか痛ましさや哀傷は感じなかった。それどころか帰国して読んだ久米邦武編『特命全権大使 米欧回覧実記』に自分の気持にぴったりの文言があった。「空気清ク、日光爽カニ、嵐翠水ヲ籠メテ、晴波淪紋ヲ皺ム」なかゴンドラで運河を行けば「飄々乎トシテ登仙スルカ如シ」。