夢の代の翁たち

柴田宵曲『団扇の画』(岩波文庫)には師友を追悼する幾篇かが収められていて、厚誼と学恩を謝す先人には多く敬称を「翁」としている。
「御無沙汰を続けている間に、林若樹翁の訃が伝えられた」(昭和十三年)
「五月十四日の夕刊は三田村鳶魚翁の長逝を伝えた」(昭和二十七年)
「三村翁は『谺』にはしばしば原稿を寄せられた。(中略)この一事を特記して、永年にわたる翁の高誼を感謝しなければならぬ」(昭和二十八年)
といった具合で、文中の「谺」は宵曲が主宰した俳誌、「三村翁」とあるのは三村竹清。竹問屋を営んでいたことから竹清と号したこの人は終生を市井の学者として過ごした。森銑三は上の三田村鳶魚、林若樹、三村竹清を「江戸通の三大人」と評している。

宵曲の追悼文にはほかにもその親近した師友の名が挙げられている。山中共古、島田筑波、山崎楽堂、香取秀真、寒川鼠骨、森銑三・・・・・・このなかでわたしがわずかにその文業に触れたことがあるのは宵曲と森銑三のお二人なのだが、いずれも両者の著作のなかでしばしばその名をお見かけする人たちである。
宵曲の名は積極を嫌い、消極をよしとするところから来ているとか。そうした人物が親しみを覚えた人たちはいずれもなつかしさを感じさせる趣味人、隠逸の人々であった。
森銑三は『思い出すことども』で「宵曲子は、博覧多識であった。趣味の人でもあった」「しかしながら自分の蘊蓄を、少しも振廻そうとせず、限られた人達とは、幾らでも話したけれども、博交は求めなかった」と書く。こうした傾向はひとり宵曲のみならずこの人たちが多少なりとも有したものだった。翁とか大人は大時代で陳腐な感じがするがこの「限られた人達」にはなんだか似つかわしく、わたしはこの人々とそこに通ずる人間類型をひそかに〈夢の代の翁たち〉と呼んでいる。
このなかでいちばんよく知られるのは森銑三であろう。昭和六十年三月八十九歳で没するまで多くの著作をなした。昭和二十五年から十五年間早稲田の教育学部で書誌学を講じた。一時は政経学部でも教養科目を担当したらしく、政経中退の大橋巨泉はほとんど授業に出なかったが森銑三の授業だけは欠かさなかったと仄聞する。
『びいどろ障子』にある「宵曲子・素白翁」で、出講にあたり森が「雑談のやうな講義しかできない」と心配していると宵曲が「それなら随筆のやうな講義をしたらいいでせう、といつてくれた」のが嬉しかったと書いている。ノートなしの講義で、それを文学部教授の岩本素白に言うとノートなど必要ありません、わたしもノートなしですと応じた。岩本素白、この人もわたしには〈夢の代の翁たち〉の一人である。