『快楽としてのミステリー』

丸谷才一氏の晩年の著作は多く自身の仕事を総括する意図から出たもので、いずれも「丸谷才一自身による丸谷才一」とでもいえる批評的編集の方針に基づいていたと毎日新聞の書評欄に鹿島茂さんが書いていた。
多年にわたるミステリーのエッセイと書評を収めたこの『快楽としてのミステリー』もおなじ、ちくま文庫の『快楽としての読書 日本篇』『同 海外篇』とともに著者自身による傑作選として編まれたものと思われる。

ミステリーについてのエッセイと書評の集成はファンとしては嬉しいが、くわえて、わたしはこの三十年あまり、この人が書評で採りあげたミステリーを指針として読むように努めてきたから、この本はおのずと自分の読書遍歴を辿ることにもなるわけで、いわば読書アルバムといった趣があり、まことに懐かしいことこのうえない。
とはいえ当方もミステリーとのつきあいは時期により親疎があるから、未読作品はこれからで、素敵な友情のはじまりを願いたいものだ。一読してみて初期の『深夜の散歩』で紹介されたものや書評作品は比較的多く読んでいるけれど、他のエッセイのなかで触れられたものはそうでもないと気づいた。たとえばディック・フランシスの一連の競馬ミステリーとか法廷弁護士ペリー・メイスンのシリーズ。双方ともに落語でいう「時代が付いている」から、さっそくブック・オフの百五円の棚を探してみなくっちゃ。
「時代が付いている」といえば、内外のミステリーや犯罪小説に携帯電話という小道具が使われはじめたのは一九九0年代のなかばごろかららしい。本書に採りあげられているミステリーのほとんどはケータイ以前のものだが、なかにはスティーグ・ラーソン『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』の書評があったりする。丸谷さんの生涯にわたる旺盛な読書意欲を示す書評といってよいだろう。
じつは書評のほとんどは既読だったが、これは知らなかった。
『ミレニアム』はスウェーデン本国の映画もハリウッドのリメイク作品も観ているし、原作の評判も知ってはいるが『ドラゴン・タトゥーの女』『火と戯れる女』『眠れる女と狂卓の騎士』すべてとなると訳書で六冊、カネと時間を考えてパスと決めていたのだが、そうか丸谷さんも書評していたのかと思うと心が揺らいで、先日とうとうハヤカワ・ミステリ文庫六冊を購入いたしました。
丸谷氏は、J・ヴァン・デ・ウェテリンク『オカルト趣味の娼婦』にある、ミステリーの本筋からいえばどうでもよい、けれどちょっぴり心を愉しくさせる挿話に触れて次のように述べている。
「人間は一般に、ときどき幸福な気持になつて満足するのでなければ生きてゆかれない。たとへそれが、木の葉が日の光を浴びて風に揺れるのが美しいとか、起きがけに飲む一杯のお茶がおいしいとかのやうな、ごくささやかな満足であつても、われわれはそれに力を得て生きてゆくことができるのである。それは人間の生の根拠だらう」。
ここには幸福感を描くことを重んじた丸谷さんの文学観、さらには人生観が込められている。そのうえで、しかし現代の文学も、そしてたいていの探偵小説もこんな当り前のことをすっかり見落としている人たちによって書かれていると苦言を呈するのである。そういいながら良質のミステリーを探し、求めつづけた。このなかで味わった幸福な読書体験がエッセイや書評の基となっているのはいうまでもない。
幸福の度合がさらに高まると快楽というほかない。『快楽としてのミステリー』にはこうした丸谷さんのめがねに叶ったオススメのミステリーがいっぱい詰まっている。