「アルゼンチンタンゴの歴史」


この週末(六月二十五日)、文京区立本郷図書館で「アルゼンチンタンゴの歴史」と題するCDコンサートがあった。講師は代幸一郎氏。「ダイ楽団」の主催者であり、タンゴやミロンガの作曲もなさっている。
聴かせていただいたのは「エル・カチファーズ」「ラ・クンパルシータ」という揺籃期の曲から、「タゴの神様」カルロス・ガルデルの「我が悲しみの一夜」を経てアストル・ピアソラまで全十二曲。うち一曲は日本代表で、一九四二年(昭和十七年)に灰田勝彦でヒットした「新雪」。
タンゴの発祥はブエノスアイレスの港町ラ・ボカ。娼婦やヤクザ、場末の食い詰め者がたむろする港町を背景として生まれた音楽だ。はじめは戯れ歌をつなぎ合わせたようなものだったのが、しだいに洗練され、芸術的なものへと昇華してゆき、やがてプロの歌手、楽士、楽団、ダンサーが活躍するようになった。ジャンルとして確立したあと一九二0年代に黄金期を迎えた。黄金期というのは人気の度合とともに、タンゴがいちばんタンゴらしく輝いていた時代と解するべきだろう。しかしそうした時代がいつまでもつづくはずはなく、三十年代半ば以降マンネリや衰退局面が見られるようになると、古典に帰れという潮流や他のジャンルとの融合を図る試み、楽理的に高度なものをめざす動きが現れる。


アルゼンチン・タンゴの歴史は芸術、芸能の世界の宿命で、ジャズや落語の世界にも通じている。ジャズでいえば、一九五0年代を中心とするモダン・ジャズがもっともジャズらしく輝いていた時代、すなわち黄金期だった。個人的にはジャズがそこからかけ離れて行くのは好まない。しかし、わたしのような保守的な男でさえ、それではあまりに頑迷固陋に過ぎはしないかと不安に陥ることもある。
タンゴもジャズも黄金期をリピートする姿勢でよいはずはなく、クリエイティブでありたいと考えるミュージシャンであればあるほどそれでは耐えられない。しかし高度の楽理やフュージョンに進み、結果としてタンゴないしジャズ独自の味わいやジャンル独特の「らしさ」を損なうとなれば、受け容れがたいファンも出てこよう。
当日の冊子にあったアストル・ピアソラの記述がそこのところの事情をよく示している。
〈垢と埃にまみれたタンゴから伝統や風土、世俗の一切をかなぐり捨て、純音楽としての姿を見いだそうとする。その結果ブエノスアイレスの人々から異端児扱いされるが、クラシックやジャズ・ポップスの一部で人気を博すことになった。〉
ピアソラの苦闘の反面でタンゴらしさは薄れたのである 
門弟によって伝えられた松尾芭蕉の言葉を集めた「遺語」という書があり、なかに有名な芭蕉の至言が収められている。
〈格に入て格を出でざる時は狭く、又格に入らざる時は邪詠にはしる。格に入り格を出でてはじめて自在を得べし。〉
タンゴやジャズの問題も詰まるところここに行き着くのだ。
黄金期の名演奏をなぞるだけではミュージシャンの個性は発揮されず、かといってお手本もなしに我流で通すのは邪道に陥りやすい。もっとも言葉として表現すれば芭蕉のいうとおりでも、じっさいにはきれいごとではなくて、両者の兼ね合いはむつかしい。
やっかいな問題はさておき、CDコンサートで選曲されていたナンバーは、わたしのような門外漢にいかにも渋い好みと感じられる素敵なもの、フランシスコ・ロムート楽団「うぬぼれ女」、オラシオ・サルガン楽団「ガージョ・ジエゴ」、カルロス・ディ・サルリ楽団「夜明け」・・・・・・これからの探索が愉しみだ。
はじめにも述べたように代先生は和製タンゴの代表として「新雪」(佐々木俊一作曲、佐伯孝夫作詞)を挙げ、高く評価されていた。戦時中の灰田勝彦の曲となると鈴木章治クラリネットとともに「鈴懸の径」を思うのだが、近々「新雪」をじっくり聴きこんでみなくては。
図書館を出たあと余韻を断つのが惜しく、喫茶店に入ってiPodtouchで大好きなタンゴ「パリのカナロ」をホセ・バッソのオルケスタほかで聴いた。
カフェ・ラテがことのほかおいしい夕刻だった。