『裏切りの晩餐』

二0一二年に岩波書店ジョン・ル・カレわれらが背きし者』を刊行したときは、学術書を中心としてきた出版社のスパイ・ストーリー分野への進出に、この書肆らしからぬという気持がしたのは致し方のないことだった。
この四月に出たオレン・スタインハウアー『裏切りの晩餐』(上岡伸雄訳)は『われらが背きし者』の延長線上での刊行と思われるが、一読してたちまち「らしからぬ」はこれからさらに優れた翻訳ミステリーを紹介してほしいという期待に変わった。

一組の男女が晩餐の席で向かい合う。物語はほとんどここでの会話により進行する。一対一で対面しながら真相にたどり着く構成はブライアン・フリーマントルの名篇『別れを告げに来た男』を思い起こさせるが、この作品にはともにCIAのエージェントで、かつては恋人どうしだった男女ゆえの哀愁感が漂う。
二00六年ウィーン国際空港でイスラム過激派による民間航空機のハイジャック事件が起こる。五時間後CIAウィーン支局に機内の情報をしるした一通のメールが届く。
「犯人は四人、銃は二丁・・・・・・後部の着陸装置からの突入がよさそう」。
送付したのは偶然乗り合わせたCIAの連絡員で、メールは都合四通寄せられたが、どうしてか彼の存在は犯人たちの知るところとなり、殺されてしまう。そうして事態は乗客乗員百二十人すべてが犠牲となる大惨事へとつながってゆく。
なぜ連絡員の存在が知れたのか。連絡員に過失があった?それともCIA内部にイスラム過激派とつながる者がいた?
疑惑は取りざたされたものの決定的な証拠はなく真相解明には至らなかった。
ところが五年後の二0一二年、テロリストが事件当時アメリカ大使館のある人物から情報を得ていたと洩らしたのがきっかけとなりハイジャック事件の調査が再開される。
その一環としてウィーンからCIA工作員ヘンリー・ベラムがカリフォルニアにいるシーリア・ハリソンのもとにやって来た。ウィーンではともに事件対応にあたった同僚であり、また恋人の間柄でもあった。ところがシーリアは事件を機にヘンリーとの関係を断ち、退職して帰国したのである。そしていまは夫と二人の幼子とともに暮らしている。
男女は五年ぶりに再会してレストランで向かい合う。恋愛感情と事件究明に伴う緊張の絡み合う対話のなかで二人の活動履歴、事件渦中の動き、事件後の軌跡が明らかにされる。
「じゃあ、君にはこんなことがあり得ると思えたわけだ。大使館の誰かが情報局の電話を使って、テロリストに電話をかけ、おしゃべりをする?」
「何か見つけたのかい?」
「もちろん見つけてないわ。でも、試さないわけにはいかないでしょ」
「大使館の電話を使うなんて馬鹿だけよね」
「じゃあ、誰かが馬鹿ではなかったとして、それでも大使館の電話を選んだとする。それをどう説明する?」
「あなたから話してくれない。ヘンリー」
作者が採用した叙述のスタイルはヘンリーとシーリアを交互に語り手とするもので、上のゾクゾクする会話、息詰まる心理戦も二人の語り手を通じて言葉の深層にある意味や秘められた思いとともに読者に提示される。
『ツーリスト 沈みゆく帝国のスパイ』やその続篇『ツーリストの帰還』等で「ジョン・ル・カレの後継者」と評される作者にふさわしい見事なエスピオナージュだ。
訳者解説によれば「幻影師アイゼンハイム」「リミットレス」のニール・バーガー監督による映画化が予定されている。