『ナチを欺いた死体』

一九四三年七月十日連合軍はシチリア南方約百五十キロメートルの範囲から二十六の地点を選んで上陸を開始した。シチリア攻防の結果は第二次大戦全体の行方を左右するものだった。連合軍としては地中海における戦いの趨勢を決定的なものとすることにより、ヨーロッパ大陸への本格的な侵攻が可能となる。じじつこの地での勝利が一九四四年六月六日D-デイのノルマンディ上陸に繋がった。
連合軍は上陸の負担を軽くするためにできるだけドイツの戦力をシチリアから離れさせておきたかった。とはいってもウィンストン・チャーチルが「極めつけの馬鹿以外は、誰だって(連合軍の上陸地は)シチリアだとみる」と述べたようにシチリアは明白な戦略目標であったからドイツ軍の守備は強固なものだった。そこでイギリスの諜報機関シチリアをダミーにしてじつはペロポネソス半島サルディーニャ島に上陸するとの情報をナチスに流し、信じさせる作戦を企てた。ドイツ軍に対する謀略とシチリアからの引き剥がしを図るこの作戦はミンスミート作戦と名付けられた。連合軍のシチリア上陸とそれに続く大陸侵攻を円滑に進めるためには前段でのミンスミート作戦の成功が不可欠であった。
作戦の企画と遂行の中心となったのはユーエン・モンタギュー海軍少佐およびチャールズ・チャムリー空軍大尉の二人だった。当事者の一人ユーエン・モンタギューは一九五三年『The Man Who Never Was』(北村栄三訳『ある死体の冒険』筑摩書房)を著して奇策について語ったが、情報公開上の制約により触れられなかったことがらや意図的に隠された事実も多く、またチャールズ・チャムリーの人物像についても明らかにされていなかった。
ベン・マッキンタイアー『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』(小林朋則訳、二0一一年中央公論新社、原書は二0一0年刊行)はそれらの諸点について明らかにし、またモンタギューが語っていない第二次大戦下の諜報戦にも触れてミンスミート作戦の全貌について委曲を尽くした、小説よりも奇なるノンフィクションである。第二次世界大戦の秘史であるとともにエスピオナージュとしても一級の作品となっている。

一九四三年四月三十日スペイン、アンダルシア地方の海岸でイギリスの海軍軍服に身を包んだ死体が発見された。スペイン当局は飛行機の墜落によるものと判断した。携行物には身分証、札入れ、十字架のついたお守り、文書ケースなどがあり、身分証からイギリス海兵隊のウィリアム・マーテイン少佐と知れた。そして文書ケースには軍の最高幹部間の私信があり、そこには上陸地はシチリアと見せかけて別の場所を考えているという連合軍の作戦が記されていた。
イギリス海軍が潮流に乗せて漂着させた死体であったが、これには飛行機事故と見せかけるためのいくつかの措置がほどこされていた。ドイツを嵌めるために仕組まれたイギリスによる繊細詳細な作業のいくつかを挙げておこう。
・死体の調達と保存
・飛行機事故と犠牲者の報道
イギリス海軍の少佐であることを示す身分証や書簡など関係書類の整備
・スペインは中立国だからイギリス海兵隊少佐が携行した書簡はイギリスに返却されるが、その前に写しをドイツ側に渡す可能性をみた人脈関係の探索
・書簡の真偽の判定にあたるドイツ側スパイの資質や配置
これらを勘案した結果アンダルシア地方の海岸が死体の漂着場所とされた。
イギリスの狙いは的中し、書簡はスペイン政府高官からスパイを通じてドイツにもたらされた。ゲッペルス宣伝相のようにこれを謀略と考えたナチス高官もいたが例外にとどまり、多くは本物と判断した。こうしてイギリスの目論見どおり、ドイツ側の頭の中では連合軍のシチリア上陸の可能性は低くなり、代わってギリシアサルディーニャへの上陸を阻止するための措置の重要性が浮上し、ついにヒトラーは「地中海の全ドイツ軍部隊は、我々に残されていると思われるわずかな時間を利用して、あらゆる力と装備を使い、この特に危険にさらされている地域の防備をできる限り強化せよ」との命令を発するに至った。おもしろいことに、連合軍のシチリア上陸はダミーとナチスが判断したとなると各地からそれを補強する断片的情報が押し寄せてくるのだった。
こうなっては残されたシチリアの沿岸守備隊が連合軍の上陸を阻止できるはずもなかった。このときになってナチスの外相リッベントロップは「イギリス側が、この誤った文書を意図的に偽造し、スペイン側の手に渡らせて間接的に我々に届けられるようにしたのは、ほぼ間違いない。唯一の問題は、スペイン側が最初からこの計略を知っていたのか、それとも彼らも騙されたのかである」と疑惑の矛先をスペインに向けたが、すでに傾いた情勢の回復に関係する問題ではなかった。
ナチスミンスミート作戦にどうして引っかかってしまったのか。
著者のベン・マッキンタイアーは心理面での要因としてドイツ国防軍情報部にあった「希望的観測」と「追蹤癖」の二つを挙げている。妄想と大差ない「希望的観測」と意気地のない部下たちの「追蹤癖」!
「人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない」というカエサルが喝破した人間の弱点にナチスも捉えられていた。多様な眼が捉えた現実を精査し、突き詰めるところに修正の可能性はあるものの、自由の気風なく直言もできない組織では無理と言うほかない。わくわくして頁を繰り、心躍った一大奇談にある苦い隠し味である。

附記
日本の作家では逢坂剛氏が『暗い国境線』(講談社文庫)でミンスミート作戦を採りあげている。