永井荷風がマラソンについて語っていた!

四月十三日。東京電力福島第1原発で増え続ける処理水の処分に関し、政府は海洋放出の方針を正式決定した。二年後をめどに、残留する放射性物質トリチウムは濃度が国の基準の40分の1未満になるよう薄めて放出に着手する。無知な文系人間は疑問に思う、ニュースは濃度についてばかり報じていたが、総量はどうでもよいものなのだろうか。

いくらトリチウムの濃度は国の基準の40分の1未満になるよう薄めるといわれても物質の量はどれほどのものなのだろう。健康のため塩分はお控えなさいといわれておなじ量の塩を希釈して摂っても控えたことにはならない。濃度とおなじように総量も大事な問題なのではないか。一九七0年代だったか公害関連法案をめぐる議論でも総量規制が重要といわれていたのを覚えている。しろうとの素朴な疑問である。

政府がいうように放射性物質は薄めれば安全無害であるならば東京湾に放出しても差し支えないはずだ。戦争勃発の際は大統領や首相を最前線に立たせよというのは子供じみた議論とされるが完全否定するのは難しい。おなじく首都に設置されていない施設、設備はなにか後ろめたさをもっているというのも捨て難い議論である。

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二月二十八日、琵琶湖畔で行われた最後のレース「第七十六回びわ湖毎日マラソン」で鈴木健吾(富士通)が2時間04分56秒の男子マラソン日本新記録をマークし、初優勝を飾った。また三月十四日の名古屋ウィメンズマラソンでは、東京オリンピックの補欠に選ばれている松田瑞生選手が独走し、2時間21分51秒の好タイムで初優勝した。

東京五輪が実施できるかどうかは別にして、すでに選手と補欠選手は決定済みではあるが、せめて補欠の枠をもうひとつ増やしてあげたい気になるのは抑えがたい。

ネットで調べたところ、日本ではじめて行なわれたマラソン大会は、一九0九年(明治四十に年)三月二十一日に開催された「マラソン大競走」で、兵庫県神戸市兵庫区湊川埋立地から、大阪市の西成大橋(現淀川大橋)までの距離約32kmのコース、選手は二十名、予選会には四百八名が参加した。

わが国初のマラソン大会から十二年のちの一九二一年、めずらしく永井荷風が「偏奇館漫録」でマラソンに言及している。

曰く「裸体で大道を走るもの往時に雲助あり現代にマラソン競争者と称するものあり。メリヤスの肌衣を着すと雖両腕を覆はず猿股一つに辛くも隠部を覆ふのみ。此輩屢隊をなして昼夜を問はず市中の車道を疾走す」。

往時に雲助、現代にマラソン競争者云々は差別的言辞ではある、ただこうした嫌味、からかいを書きつけるのに漢文調擬古文は一種独特のユーモアを醸し出す。漢文の妙味というべきだろう。

ラソンの話に戻れば、荷風は、婦人の議員、官吏、兵士となるのはよしとしよう、しかしその前に「まづ体育運動も宜しく男女同様たらしむべし。即白昼堂々女子の衣を剥いで大道にマラソン競走をなさしめんか。満都の男子悉く雀躍してその後に随つて走らん」とからかった。女子のマラソンなど考えられない時代であった。

荷風先生いまあれば女子マラソンの隆盛に何という?

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服装や髪型でどのような人であるかがすぐわかる時代があった。裃、二本差し、衣冠束帯などの記号で相手との付き合い方、距離の取り方がすぐに知れる仕組みで、いじめの報道に接すると、あらかじめどんな人間かわかっていれば対応策も考える時間があるのだがとかつての仕組みを思ったりする。身分制をよしとはしないけれど。

「礼儀三百、威儀三千の世界は、たしかに、人間の平等を否定し、感情の自然な流露や直截な行動を妨げるものである。しかし、それはまた、傷つけやすく、傷つけられやすい心と心の裸の接触を、なるべく間接的なものにかえ、人なかの辛さを減らす知恵でもあった」。京極純一『文明の作法』における所説は人間関係の文明論だ。

ローマ人は、親指を負傷した男は武器をしっかり握れないものと考えて兵役を免除し、また海戦に勝利すると敗れた敵兵の親指を切断させて、戦う手段と船のオールをこぐ手段を奪ったという。いまはどうか知らないが、日本のやくざ社会では詫びと今後敵対しない担保として小指の第一関節を切る風習があると聞く。指を詰めるのもまた心と心の裸の接触をなるべく間接的なものにかえる知恵だったのかもしれない。

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千駄木界隈を散歩していると「青鞜社発祥の地」の立札があった。本郷通りを団子坂のほうに折れて左側を三四分歩いたところにあるマンションの前に立っていて、近くには森鴎外の私邸観潮楼跡(現在文京区立森鴎外記念館)もある。 

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この立札で、一九一一年(明治四十四年)に設立された女流文学者の結社またフェミニズム思想の啓蒙運動団体がこの地からスタートしたとはじめて知った。ご近所に住みながらこれまで知らず、ネットで平塚らいてうを発起人とするメンバーをみたところ錚々たる名前が並んでいてこれについても不明を愧じた。

機関紙「青鞜」を編集発行した平塚らいてう、そのあとを継いだ伊藤野枝、表紙を描いた『智恵子抄』の長沼智恵子、他にも岡本かの子、神近市子、野上弥生子長谷川時雨原阿佐緒田村俊子与謝野晶子、鴎外の妻森志げや妹小金井喜美子もいる。

永井荷風が彼女たちいわゆる「新しい女」を小説に取り上げようとしたことがある。「十日の菊」によると「新しい女」を主人公とする「黄昏」という小説を百枚ほど書いたところで断念した。主人公は米国に留学し、大学を卒業して帰国し、女流の文学者たちと交際し、文芸講演会で講演するといった女性だった。

親友の井上唖々が荷風に、あの小説は出来上がったかと問うと「いや、あの小説は駄目だ。文学なんぞやる今の新しい女はとても僕には描けない。何だか作りものみたやうな気がして、どうも人物が活躍しない」と答えている。

荷風は「厠の窓」に、 明治維新は女子が学ぶ流行をもたらし、吉原廓内にも共慣義塾という塾の出張所ができたほどで、柳橋の阿亭という芸妓は横浜へ行き英語を学んだし、北廓即ち吉原平泉楼の抱え、若緑は櫛笄を売って書籍を買い「言の葉の及ばぬ身にも分け入らん文の林のしるべある世は」とよんだといったことを紹介していて、小説に描くかどうかは別にして学問する女性にあたたかい目を向けていた。

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日本時間の四月十七日未明、訪米中の菅首相とバイデン大統領は対面ではじめての首脳会談を行い、共同声明には「台湾海峡の平和と安定の重要性」が明記された。首脳会談の共同声明で台湾に言及したのは一九六九年の佐藤首相とニクソン大統領の会談以来およそ半世紀ぶりとなる。

バイデン大統領「私たちは、自由で開かれたインド太平洋の未来を確かなものにするために、東シナ海南シナ海、そして北朝鮮などの問題で、中国からの挑戦に協力して取り組むことを約束した」

菅首相「インド太平洋地域、世界全体の平和と繁栄に中国が及ぼす影響について、真剣に議論をした」

また共同声明は、中国の新疆ウイグル自治区や香港の人権状況について「深刻な懸念」を共有するとともに、「中国との率直な対話の重要性」にも言及していて、特に「台湾海峡の平和と安定の重要性」については「両岸問題の平和的解決を促す」としている。

中華人民共和国が国連に参加したのは一九七一年、それまでは中華民国政府(台湾=国民政府)が大陸と台湾を代表する正統政府とされていて現実無視の政治的フィクションがまかり通っていた。それを正した中華人民共和国の国連参加は歓迎すべき出来事だった。

いっぽう当時の台湾の政治は国民党専制で、よい印象を持たなかったわたしは台湾の命運についてはさほど気にしていなかったと率直に認めておかなければならない。

その後、李登輝総統をリーダーとする政治改革により台湾の専制政治は終わりを告げた。そしていま民主化を期待された大陸の政治は反対にどんどん強権的になり、台湾は一層の民主化を進めた。中国の国連参加から半世紀、世界は台湾の命運を真剣に考える時期を迎えている。

中国の台湾侵攻は日本にとって坐視できない。第二次世界大戦直前に英国がナチスチェコ侵略を静観したことの教訓を思えばこの時点での明確なメッセージには納得する。

共同声明に「台湾海峡の平和と安定の重要性」を明記したことについて識者のコメントのなかに日本はルビコン川を渡ったとの文言があった。わたしは日本国民の一人として、また左右の全体主義専制独裁政治に反対する地球の一市民として民主主義、人権という普遍的価値を尊重する国々がともに取り組むことは重要だと考えている。今回の共同声明がルビコン川を渡ったとすれば望みはしないが武力衝突は視野に入れておくべきだろう。そのための法的措置として憲法論議も必要かとは思うが、そうなるとわが国のばあい右からの全体主義の勢いが増すのは必定で、しかしわたしは自分にとって暮らしにくい世の中は真っ平御免、やれやれ。

永井荷風「毎月見聞録」を読んでいると大正六年十一月十日の記事に「両陛下の行幸啓に対する学校生徒の敬礼は従来立礼のみの定めなりしが今回文部省にて宮内省と協議の上左記の如く端座の礼を定め文部次官より各府県知事に対し夫々通牒を発したり『気を附け』の号令にて端座し『礼』の号令にて手を膝の前方の地上に置き上部を前方に屈し(約四十五度)御車に注目せしめ『直れ』の号令にて元の姿勢に復せしむ」とあった。

両陛下のお出ましに児童生徒は正座、号令で手を膝の前方に伸ばす礼式が大正の世に行われていたとは知らなかった。 端座(正座)はやさしい言い方で、これは土下座である。

困ったことにわたしはこれを過去の話と片付けられない。右からの全体主義の一環として近い将来にもありうる光景かもしれないと憂える。 

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日露戦争での日本の勝利は革命に有利な状況を生み出してくれたとレーニンは日本に感謝したが、その後継者スターリンは日ソ中立条約を破棄し、満洲へ侵攻するにあたり兵士たちに日露戦争のときの屈辱を雪げと訴えた。 

この違いを取り上げた林達夫は、日露戦争の復讐戦を説いたスターリンツァーリ専制の後継者にほかならず、レーニンを継ぐものではないと断じた。(「旅順陥落」)

いま中国では、義和団の乱の渦中にあった清朝に干渉した帝国主義列強八ヵ国すなわちオーストリア=ハンガリー帝国、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、イギリス、アメリカの連合軍のことが話題を呼んでいるという。

新型コロナウイルスパンデミックについて中国の責任ばかり追求している欧米諸国とかつての八ヵ国連合軍を重ね合わせて、いまその第二幕が行われているというわけだ。そのうち習近平は、義和団の乱のとき、さらにさかのぼって日清戦争の恨みを晴らせといいだすかもしれない。どうやら習近平中国共産党も王朝体制の後継者であって孫文を継ぐものではない。

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四月二十三日、政府は新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言を、東京、大阪、京都、兵庫の四都府県に発令することを決めた。期間は二十五日から五月十一日まで。

オリンピックパラリンピックは適切な感染対策を実施すれば開催可能という日本政府にお願いしたい。緊急事態宣言や時短休業要請を出す前に、オリパラを開催できるという秘蔵の感染症対策を出し惜しみせず、いまただちに実施していただきたい。特効の感染症対策はオリパラ用に取り置きしておくというのであれば、 経済を廻すため感染拡大抑制策はしないというブラジル大統領も三舎を避けるに違いない。

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天皇皇后両陛下のお出ましに児童生徒は正座、号令で手を膝の前方に伸ばす礼式が大正の世に行われていた話から察せられるように永井荷風を読んでいると歴史学の大論文からはうかがえない社会の一端が見えてくる。

たとえば 大正六年(一九一七年)に書かれた「築地がよひ」に「先生の称たるや、昔は知らず今は講釈師も先生なり、壮士役者も先生なり、活動写真の弁士も先生なり、三百代言も亦先生なり。独教育家に限らざる」という一節があり、「先生」の広がりが知られる。このころはまだ議員を「先生」と呼んではいないようだ。

大正九年の「偏奇館漫録」には「四辻の風に睾丸も縮み上る冬は正に来れり(中略)薬種屋の店先にマスク並べられて流行感冒の時節は迫れり」とあり、大正の昔からマスクを苦にせず必要に応じて利用する賢明な日本人の姿が浮かぶ。かつての日本人にありがとうと感謝とともに讃えたい。これを他国と較べて民度が高いなどというのはいやらしい。

あるいは小説「春雨の夜」(大正十一年)にある老夫婦の会話。

「この節の若い夫婦はみんな自分の好きな新しい家がいいと申しますから仕方が御在ません」

「寅雄も洋行から帰つて嫁を貰つたら矢張別に家を持つだらうな」

「それは無論さうで御在ませう。姑と一緒だなぞと申しましたら此頃では嫁に来るものは御在ますまい」

すでに大正時代にはこうした核家族化をめぐる会話が交わされていたのだった。

そういえば小津安二郎「淑女は何を忘れたか」(昭和十二年)にも山の手の高級住宅地における核家族的な雰囲気が漂っていた。