『アメリカ様』

昨年の『震災画報』につづいて宮武外骨アメリカ様』がちくま学芸文庫の一冊にくわわった。
元版は東京裁判が開廷した一九四六年五月三日に蔵六文庫から刊行されていて、『震災画報』に較べると自由にものが言える度合が大きくなったぶん、より心を開いて多く自分を語っているので、まずはその自画像を見ておこう。
外骨は明治二十二年(一八八九年)大日本帝国憲法発布をパロディ化して不敬罪に問われ三年八か月にわたり下獄した。そのときの体験に寄せて自身の人間形成をこんなふうに語っている。
ありがたくも獄中では酒色放縦に流れようにもできなかった。そのために「奇抜の妙想、苛烈の言動、天下無類の創業、毀誉褒貶を気にせず、偽悪人と呼号して憚らず、冷嘲熱罵、反上抗官、直言直筆、不撓不屈、過激執拗、官僚や軍閥を敵として終始かわらず、貴族富豪を嫌ってその存在を呪うなど、いわゆる威武に屈せず、富貴に淫せず、顧みて衷に疚しき事なく、俯仰天地に恥じる所なしとして、意思堅実、強情我慢に我儘気儘を押し通せた」と。
一読まことに痛快そして言論活動にたずさわる者にとって頂門の一針となる内容だ。

『震災画報』がこの人のプロデュースによる関東大震災直後の世相ライブといった一冊だったように『アメリカ様』からは外骨が見た戦時中と敗戦直後の世相と国民感情が生き生きと伝わってくる。
「日米交戦中の昭和二十年春頃、米軍が南方の日本領土へ押寄せて来た時、今に神風が吹くぞと云う者があり、またそれを祈る者もあったが、風は自然の気象状態、またありもせぬ神が風を起すなどというのも、非科学的の妄誕である。果たして神風も起らずこちらの敗亡であった」と戦時中の世相を揶揄し皮肉る変化球を投げたつぎには「日本軍の各地における掠奪ぶりを見て、皇軍の聖戦とはこんなものかと意外に思い、初めて眼のさめる動機となった」という新聞紙上の感想談を素材に「そもそも皇軍の聖戦と云うことが大味噌であった。皇軍とは天皇の軍隊、聖戦とは神聖の戦争、天皇すなわち神様の命令によって動く征伐との意であるとすれば、大きに笑わせるではないか。今後はアメリカ様のお蔭で、皇軍の聖戦など云うことが、絶対になくなったのを祝する」といった剛速球が繰り出される。
このような立論の上に立って外骨は明治このかたの日本社会のありかたを問う。
「国民が軍人を崇拝して薩摩の吉之助を大西郷と呼んだり、東郷平八郎を軍神と称したり、さては衒死を遂げた乃木希典などを祭った乃木神社を建てたりしたのがイケナイ。また国民が戦争を祝して旅順陥祝の提灯行列などをやったのもイケナイ。これらはいずれも軍人を増長せしめたのである。なおまた軍人は政治に関与すべからずの原則を破って総理大臣になったりした事実が度々あった。それを国民が黙認したなども軍閥跋扈の原因である。そのほか国民が武運長久の祈念をしたのも軍国主義助成であった」。
外骨が示した近代日本の歴史像はまことに明快だ。読んでいると、さほどでもない歴史学者が重箱の隅のあれこれをつっついてやれ誰それの再評価だ、これまでの歴史像の転換だなどといった張り扇を叩きながらする声高な議論がアホらしく映る。
日本軍が強制連行して朝鮮人従軍慰安婦の調達に関わったかどうかの問題にしても、わたしは軍務として女性を連行したりすることはふつうには考えられないから、韓国の政治的思惑とは関係なく、そうした事実の有無の究明はしてほしいと願っているが、その結果、軍による連行行為がなかったとしても「皇軍」のありようというマクロな視点については上の外骨の文章を押さえておけばよいと思う。あばたがえくぼに変わるような問題ではない。連行はなくても、慰安所の設置には「皇軍」の許認可を必要としたはずである。
近代日本のありかたを問う外骨の鋭いまなざしはまた占領軍にも向けられていて、それは何よりも『アメリカ様』という書名によく示されている。外骨は自由、平等、民主主義といった理念と価値を尊重する。けれどそれはアメリカの恩恵であり、配給物であるという屈託が「アメリカ様」には込められている。また外骨は戦後の自分を「半米人」と規定していて、ここにもアメリカからの配給で言論活動をしているという複雑な感情が見てとれる。
外骨は占領軍を「解放軍」と賞讃もせず、GHQが占領に対する否定的なイメージを払拭しようとした「進駐軍」という呼称を用いもしなかった。あくまで自由、平等、民主主義を配給してくれた「アメリカ様」であり、その「アメリカ様」は外骨の文章を検閲し削除命令を下してもいた。こうして「アメリカ様」は諧謔の対象ともなり重層多義の意味合いを帯びる。
アメリカ様」の配給物のうち最高にありがたく、また、やっかいなものが日本国憲法である。いまの国会議員諸公には、憲法解釈を変更してでもアメリカといっしょに戦争ができるようにしておかなくてはいけないが、アメリカから配給があった日本国憲法という最高法規はよくないと考えておられる方がこれまでになく多くいらっしゃるようだ。その言い分も理解できるけれど、自主憲法の向かう先に外骨の言う「今後はアメリカ様のお蔭で、皇軍の聖戦など云うことが、絶対になくなったのを祝する」という箇所も帳消しになってしまう怖れも否定しがたい。
そうこうするうちにこんな議論も特定秘密保護法でお縄になったり、教科書にそぐわないと図書館から排除されたりする時代になるかもしれないね。