須賀敦子がはじめてシエナを訪れたのはパリ大学で勉強していた一九五四年の夏だった。八月十六日の「パリオ」の祭りもこのとき経験している。十五年ののち彼女はシエナを訪れている。もういちど新しい目でイタリアの町を見てみたい気持が湧いての旅だった。このかんに夫が亡くなり、日本に帰国した。再訪の旅では、かつて暮らしていたミラノでは手のとどかない遠さに見えたフィレンツェをはじめとするトスカーナ地方に思いがつのったという。そのなかで彼女はシエナに魅せられた。
一九七一年四月十日の日記には「シエナ派の私」という文言がある。
『遠い朝の本たち』には「(トスカーナの)なかでもシエナは好きな町で、機会あるごとに、私はこの丘の町に帰っていた」と書いている。
写真手前のサン・ドメニコ教会には須賀敦子が彼女のように激しく生きたいと願った「聖女カテリーナ」の像が収められている。