「火に追われて」(関東大震災の文学誌 其ノ三)

岡本綺堂随筆集』にある一篇で関東大震災の体験を述べた「火に追われて」は、たいへんに臨場感のあるルポルタージュであり、乏しい読書体験を承知であえていえば、山の手での震災体験、火焔におおわれた怖ろしさをこれほどに示した文献は貴重だと思う。
当時綺堂が住んでいたのは麹町元園町、山の手でも中心部にある地域だった。地盤がしっかりしているのだろう、ひどい揺れではあったが綺堂の家の周辺は屋根瓦が少し落ちた家があるくらいで目立つほどの被害はなかった。それでも不安で向こう三軒両隣、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめ「一種の路上茶話会」を開いて情報を交換していた。お茶、ビスケット。ビール、サイダーなどがならんだ路上茶話会には余裕が感じられる。じじつそのなかで綺堂は執筆中の戯曲のことを考えていたという。

被害はまぬがれたと見えたが、日が暮れきると不安と恐怖が押し寄せた。それでも火の向きから推しはかると元園町は安全と思われた。神田方面や銀座通りが焼け、火先が帝国劇場へ迫っていると聞いても「しかしこちらは無難で仕合わせでした。殆ど被害がないといってもいいくらいです」といった会話がされていた。深夜十二時半前後、近所がさわがしくなり、聞けば火の手がふたたび激しくなっているとのことだったが、それでも綺堂の住む横町の家々で荷ごしらえをする様子は見られなかった。ところがその三十分後の午前一時ころ綺堂が麹町の大通りの混雑を見て帰ってみると火は一町ほど近くまで来ていて、誰かに「旦那。もうあぶのうございますぜ」と声をかけられた。その一時間後、綺堂宅のある横町一円は火に焼かれた。
神奈川県相模湾北西沖八十キロを震源とするマグニチュード7.9の地震が起こったのは一九二三年(大正十二年)九月一日十一時五十八分三十二秒だった。岡本綺堂が焼け出されたのはそのおよそ十四時間後だから、文字の上ではあるけれどその火焔のすさましさが理解されよう。火の勢いも想像を絶するものだったし、仮にどこかの火が下火になったと安心しても別の地域でさかんになる。風の具合で火の勢いも変われば風向きにより火の向かう先もちがってくる。便利な通信機器とてなく対応は後手に回りやすかった。
自筆の岡本綺堂年譜の九月一日の記事を見ておこう。
〈九月一日、大震災に遭う。市ヶ谷方面より燃え出でたる火は翌二日午前一時頃に至りて、元園町附近に襲い来る。何分にも風上とて油断しいたると、余震強くして屋内に入ること危険なるにて、家財を持ち出すこと能わず、なまじいに家財に執着して怪我などありてはならずと、殆ど着のみ着のままにて家族を引連れ、早々に紀尾井町の小林蹴月君方に避難す。〉
寺田寅彦によると火事に持ち出した荷物を広場に持ち込んで、それに火がついたために被害が大きくなった事例が江戸時代の記録に銘記されてあるという。このとき綺堂の胸にこの記録の内容が意識されていたかどうかはわからないけれど、結果として「殆ど着のみ着のままにて家族を引連れ」避難したのがさいわいした。

田山花袋『東京震災記』に日本橋久松町にある豪邸で当家の主人に代わって火の具合を見ていた人の談話が載っている。
〈私は支店の宿直の男と二、三人で、その上の物見にのぼって、絶えずその情況を下に報告していたんですが、丁度その時分、三越の背後の方が盛んに燃えている。何とも言えず凄じい。それに、印刷局の方も燃えているし、京橋の方にも、築地の方にも火の手があがっている!どうだね、君、大丈夫かね?などと言っていたが、ちょっと便所に行って来て見ると、もうこれはとても駄目だ!〉
「ちょっと便所に行って来て見ると」もう駄目だったというところに火焔の勢いのすさまじさが感じられる。
この人はそれからさき丸の内方面へ逃げたのだったが、避難民が荷物を持って出ていたために道路がふさがって進まない。人びとは家財が惜しくて荷物をできるだけ多く持って出る。なんとか宮城まで逃げて生き延びたこの人は「早く避難すれば、いくらも丸の内なり、宮城前なりに避難出来たんですけども、皆な慾に引かされて、こうしていれば大丈夫だくらいに思っていたんですね・・・・・・」と語っている。
寺田寅彦関東大震災が起こったときは上野の美術館にいて「自分の全く経験のない異常の地震」であることを知るとともに子供のときから何度となく母から聞かされた土佐の安政地震に思い及んだ。
客も従業員もすべて建物外へ出たが寅彦だけは屋内に残った。建物の振動から判断して内部にいてだいじょうぶと見極めをしたうえでなかの状況を観察していたのだった。のちに小宮豊隆あて書簡で「今度の地震は東京ではさう大した事はなかつたのです。(中略)火事さへなかつたら、こんな騒ぎにはならなかつた」と述べ、火災を大きくした原因として地震で水道が止まったこと、屋根が剥がれて飛火を盛んにしたこと、余震の恐怖が消防活動を萎縮させたことを挙げている。
大震災の火は消防活動を萎縮させるほどの勢いだった。