「ステキな金縛り」

ザ・マジックアワー」以来三年ぶりの三谷幸喜監督作品。
チョンボつづきの弁護士宝生エミ(深津絵里)が、弁護士事務所の上司速水(阿部寛)から、これが最後の機会といわれて、妻殺しの嫌疑で被告とされた夫の殺人事件を担当する。被告は、無罪を主張、アリバイとして、殺人のあった当夜は、田舎の宿の一室で落ち武者の幽霊、更科六兵衛(西田敏行)のため金縛りに遭っていたと訴える。唖然とするエミに上司は「嘘をつくならもっとましなことをいうだろう」。
被告のアリバイを唯一証明できるのは幽霊だけだから、エミは何としてでも更科六兵衛を捜し出して法廷で証言してもらわなければならない。対する検事は小佐野徹(中井貴一)。小佐野はオカルトを真っ向から否定して六兵衛の証言は法的に無効であると主張する。こうして法廷劇の幕が切って落とされ幽霊参加の裁判が進行する。
笑いとペーソス、フランク・キャプラの「スミス都へ行く」のDVDを小物に用いるなど随所に遊び心を感じさせるコメディ。なにはともあれ百四十二分をたのしく見せるのだからその才覚は評価しなければならない。
「悪人」でシリアスな役を演じた深津絵里が今回は一転コメディエンヌに挑戦、素晴らしい成果を挙げている。同様に中井貴一の厳粛で、ときにお馬鹿の役どころも面白い。西田敏行ははまりすぎるほどにはまっている。ワン・シーンだけの役者を含め豪華な出演者。深津絵里西田敏行のデュエットはミュージカルの趣もあってうれしい。




というふうに魅力を挙げたあとで気が引けるのだけれど、しかし、映画館を出たあと喫茶店で珈琲を飲みながら語り合いたいとか、一人ビールで乾杯して、面白かったところを反芻してみたいというほどの気にはならなかった。
その点で、舞台の延長感はあってもラジオのスタジオを玉手箱の如く魅せた「ラヂオの時間」、しみじみ感で心洗われた「みんなのいえ」、ドラマツゥルギーの巧さとドライブ感に唸った「THE 有頂天ホテル」のときとは違う。
このあと「ザ・マジックアワー」で三谷幸喜はメルヘンタッチを強めており、「ステキな金縛り」でもこの作風を引き継いでいる。ひょっとしてこの新作にいまひとつ自身のノリがよくないのは気質的にメルヘンタッチにあわないだけの話なのかもしれない。自分としてはそのような気質とは思っていないけれど、それはともかく「ザ・マジックアワー」でもギャングを相手にした偽物映画作りがいつ、どんなふうにしてばれてしまうのかのサスペンスはあった。
そう、「ステキな金縛り」は法廷劇でありながら、このサスペンス感を欠いている。法廷で幽霊の証言が認められれば被告は無罪になる。ならば、幽霊の証言を認めるかどうかについて検察と弁護側が力の限り応酬してはじめて緊張感が生まれるはずだが、検察は早々に幽霊証言に異を唱えるのを止してしまう。
映画の面白さ、すくなくともそのひとつは映像を通じての人間どうしの関わり合いにあって、肉体、感情、精神、思想、論理で以て人と人とが関係を取り結ぶ点では小津作品も実録ヤクザ映画もおなじである。人間どうしのぶつかりあいという局面でいえば法廷はその坩堝であり、おのずと法廷劇の魅力も明らかであろう。ところが「ステキな金縛り」の法廷では検察、弁護双方があまりに早くなれ合ってしまう。百歩下がって、検察、弁護側において早々に幽霊証言を認めたとしても、裁判長がどのような決定を下すかをめぐる緊迫感がなくてはならないはずなのに、本作の裁判長はまったくのデクノボーに過ぎない。
メルヘンに緊迫感など不要だとは考えない。双葉十三郎は「アパートの鍵貸します」について「戯画化であるにもかかわらず、ワイルダーの演出は、きわめてリアルである」と評している。戯画化とリアル、メルヘンとサスペンスは相反するものではない。どうも幽霊に比重を置きすぎた結果、映画全体の高揚度が減少したのは否めず、あるいは西田敏行を裁判長に据える選択もあったかもしれない。
もうひとつには視線の質の問題があって、ラジオ番組制作、マイホーム建築、ホテル業界、映画作りを採り上げたこれまでの作品には、登場人物に対する作者のやさしくあたたかいまなざしのいっぽうに多少なりとも冷徹で皮肉な視線が感じられたのが、今回はさっぱりなのだ。
エルンスト・ルビッチビリー・ワイルダーを引き合いに出すまでもなく、冷徹、辛辣、皮肉なまなざしを欠いたコメディが薄っぺらいものになりやすいのは、かれらを尊敬する三谷ならば百も承知のはずだろう。いや、この映画ではフランク・キャプラのDVDが小物に用いられているのだから、やはりキャプラを引き合いに出すべきか。「ステキな金縛り」は幽霊も含めてみんな仲よくあたたかいだけの映画になってしまったようだ。いわば緊張感や苦味の稀薄なキャプラ・タッチ、もしも三谷が狙っているのがこの線だとすればちょいとさびしいな。(十一月八日TOHOシネマズ日劇