ゲオルク・エルザーの戦後史
二0一四年ドイツのメルケル首相はゲオルク・エルザーを、みずから戦争を阻止しようとした人物であると評価し、翌年には映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」が公開された。これらに先立つ二00一年には市民の単独による勇気ある行動を讃える「ゲオルク・エルザー賞」が設けられ、ミュンヘンにはエルザーを記念して「ゲオルク・エルザー広場」がつくられた。

といったふうに現在ドイツではエルザーの行動は高く評価されている。しかし東西ドイツに分裂していた時期には、西ドイツでは偏屈な共産主義者とされ、東ドイツではドイツを解放したのはソ連軍であると無視された。
エルザーの復権運動はベルリンの壁崩壊のあとにはじまったが、それを準備した出来事が一九七0年にあった。ベルリンでエルザーが再尋問を受けたときの調書がミュンヘンにある現代史研究所の歴史家グルッフマンにより発見され、公表されたのである。
そこにはエルザーの生い立ちや事件を起こすまでの思い、行動が語られている。詳しくは對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々』(中公新書)を参照していただくとして、本書にはシャイラーが述べた「まじめではあるが、知能程度は低かった。彼は爆弾をつくって爆発させたことを認めただけでなく、そのことを自慢さえした」といった人物像とはまったく異なるエルザーの貌が現れる。
発見された調書で「一九三八年秋以来、戦争が避けがたいのではないかという思いが、たえず私の頭の中にありました。どうしたら労働者の苦しい境遇を改善し戦争を避けることができるかを、必死に考えました。考えた末に、現在の国家指導部を排除しないかぎり、ドイツの状況は変わらないという結論になりました。国家指導部の首脳とはヒトラー、ゲーリンク、ゲッペルスの三人です」と述べているようにエルザーはドイツの現実を洞察し、戦争拡大を阻止するために行動した人物だった。
また爆薬の技術と知識については計器製造会社で臨時雇いをしていたときに習得しており、採石場での実権を経て実行に及んでいる。背後関係がなくては困難と見えた技術を彼は一人で学び、習得していたのだった。
ならばエルザーはどうしてすぐに処刑されなかったのか。わたしの手許にあるなかでは最新の研究成果である『ヒトラーに抵抗した人々』(二0一五年)をふまえて以下に述べてみよう。
先にも書いたように、ナチはエルザーを事件の実行犯、黒幕をイギリスの諜報機関とした。それはエルザー単独犯よりもはるかに宣伝効果をもつものであり、事実の究明よりも政治判断を優先させた、あらかじめ決められた結論だった。
ヒトラーにとって事件はイギリスへの敵意と憎悪を煽る格好の素材であり、エルザーはドイツが最終的に勝利したあともさらに政治利用できると考えていた。そのため彼は「特別囚」として五年余りを自殺防止のため常時監視下に置かれ、ゲシュタポ本部最上階、ついで近郊のザクセンハウゼン強制収容所の独居房に幽閉され、一九四五年二月にはダッハウ強制収容所に移送されたのである。
ドイツの敗色が濃くなるとともに国民はエルザーの事件どころではなくなったが、ナチ指導部は忘れることなく一九四五年四月五日ダッハウ強制収容所にいたエルザーの射殺命令を発し、同月十一日射殺された。
ここでもう一度事件のあった一九三九年十一月八日の前後に時間を戻してみよう。
同年三月十五日ヒトラーはボヘミア、モラヴィアを併合し、チェコとスロバキアを手中にした。九月一日にはポーランドに侵攻し、三日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告をした。ドイツ国内で、また占領地でユダヤ人は迫害され、強制収容所では拷問と殺害が繰り返され、拡大の一歩をたどっていた。
どうしてこのような事態になったのか。ナチを批判する立場から、これをドイツの国民性に結びつけた議論がある。そうした立場からウィリアム・シャイラーは「血なまぐさい征服へのヒトラーの凶暴な欲求は、決してドイツでただ彼ひとりのものではない」「膨張への衝動、ドイツ人が生活圏(レーベンスラウム)と呼ぶところの土地と空間への飢えたような渇望は、この民族の魂の中にずっと昔から巣くっていたものだ」と論じた。(『ベルリン日記』)。
現在からすると古めかしい議論であり、もちろんわたしはこうした国民性論に与するものではないが、当時にあっては特殊なものではなかったし、皮肉にもヒトラー、ナチがユダヤ人の「民族の魂の中にずっと昔から巣くっていたもの」を見ようとしていた点で、考え方の発想は共通していた。
これにたいしエルザーは、尋問官から、きみのしたことを罪とみなすかと問われて「深い意味では〈否〉といいたいです。私が信じているのは、善きおこないをしようとしているのを生きて証かすことができれば、いつの日か天国に迎えられるのだ、ということです。要するに、自分の行動によって、戦争でさらに多くの血が流されるのを阻止するつもりだったのです」と答えている。
彼が立脚したのはいずれの国や国民性を超えた普遍的な「個」であり、そこで問われているのはあくまで「善きおこない」であった。