「September In The Rain」

「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)
「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家
新古今和歌集』にある三夕の歌はいずれも晩秋の状景を詠んでいる。日本人が「もののあはれ」を知る、「すずろに涙のこぼるるがごとし」(鴨長明『無名抄』)の気分になるのはなんといってもこの季節であろう。
アメリカのばあいはどうか。
「五月から十二月まではたっぷり時間はあると思っていた/でも九月になると一日、一日が短くなっていく」と歌われる「セプテンバー・ソング」からうかがうに米国人の感傷がもっとも刺激されるのは初秋で、真夏の狂騒が終わったときふとわれに返り「すずろに涙のこぼるるがごとし」といった心持になるのではないか、というのがわたしの独断である。
いっぽう日本の九月は残暑であり「小さい秋」を見つけるのはもうすこしあとのことになるし、真木立つ山、鴫立つ沢、浦の苫屋のさびしさとあはれはさらに秋の深まりを待たなければならない。
ついでながら「夏服を着た女たち」をはじめとする短篇小説の名手で、一九一三年にブルックリンに生まれたアーウィン・ショーは第二次大戦後およそ四半世紀にわたりパリで暮らしていて『パリ・スケッチブック』に「冬は不幸と同じようにパリにいるとき一ばん深く身にしみる。パリはもっとも陽気なところだけに、いざ悲しみに沈むとなるともっとも深く悲しみに沈む」(中西秀男訳)と書いている。パリの「もののあはれ」は日本よりすこしあとにおとずれるようだ。
話を米国にもどすと、初秋の感傷に雨をあしらった素敵な曲がある。
「あなたがわたしにささやいた愛の言葉を、雨のしずくがいま甘く奏でている。春が訪れてもわたしの心はいまも九月、あの雨の九月」。
「セプテンバー・ソング」とともに九月を歌った名曲「セプテンバー・イン・ザ・レイン」の一節で、愛の思い出を歌うバラードに雨の九月はとても似合いの時期とされている。
雨にちなんだ曲ばかりを集めたお気に入りのアルバムSue Raney「Songs For A Raney Day」(彼女の名前とrainyとが掛け言葉となっている)で掉尾を飾る「九月の雨」が好き。もうひとつ、ピアノ、ベース、ドラムのピアノトリオにヴァイブラフォン、ギターを加えたジョージ・シアリングクインテットがこの曲で注目を浴びたのは一九四九年のことだったが、そのサウンドはいま聴いてもおしゃれだなとおもう。

*「セプテンバー・イン・ザ・レイン」
作詞:アル・デュビン
作曲:ハリー・ウォーレン