「恋人よ我に帰れ」

ある英文法の本に、The earth、The sunがともに定冠詞付きで使われるのは、地球も太陽もひとつしかないものであり、十分に特定されていると想定されるからだと説明があった。

The sky was blue and high above  The moon was new and so was love.

わたしがカラオケで歌える数すくない英語の歌Lover come back to me(恋人よ我に帰れ)の歌い出しである。

skyとmoonに定冠詞が付くのはうえの英文法の本が説明してくれている。長年聴いたり、歌ってりしてきたにもかかわらず、定冠詞になんの疑問も覚えなかったのだからおはずかしいかぎりで、これからはもっと文法を意識しなくてはいけない。

歌詞の詳細は避けておくけれど、要は空にのぼったばかりの月を思わせた新しい恋がやがて破れて昔のことになってしまったという内容。楽曲はAのメロディの提示、そして繰り返し、転調、最後にもう一度Aに戻る、スタンダードナンバーによくあるA-A-B-Aの構造をもつ。

はじめのAで

The sky was blue and high above  The moon was new and so was love.

と歌われたところは最後のAで

The sky is blue and The night is cold  The moon is new but love is old.となる。

空は青く、月も恋も新しかったのが、いまは月は新しくても恋は過去のもの。 こうして歌詞は過去の時制wasではじまり、現在の時制isで終わる。

なんだか英文法にこだわっているようだが、この時制の変化、時間の流れがもたらす情感をどれほど表現できたかですくなくともボーカルの評価は決まる。

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その点で、衆目の認める推しはミルドレッド・ベイリーで、わたしのiPhoneには有名なヴォカリオン盤のほか三つのヴァージョンがはいっていて、メロディの崩しはそれぞれ異なっているがどれも素晴らしい。比肩できるのはビリー・ホリデイのコモドア盤「奇妙な果実」に収めるヴァージョンだろう。

テーマからしてテンポはスローもしくはミディアムがふさわしいが、ときにエラ・フィッツジェラルドのようにアップテンポで、派手に崩して歌うひとがいる。ただし楽曲がもたらす情感というよりもアクロバティックな歌い方を見せつけられているようで、わたしには芳しくない。エラ・フィッツジェラルドは女心の切ない気持の表現に長けた歌手なのに。想像するにミルドレッド・ベイリーの名唱に迫るにはまったく異なる発想で歌うほかない気持を抱いていたのではなかったか。そんなにムキにならなくてもよかったのに。

はじめブロードウェイのオペレッタ「ニュー・ムーン」で歌われた「恋人よ我に帰れ」の楽譜と歌詞(シグマンド・ロンバーグ作曲、オスカー・ハマースタイン2世作詞)が出版されたのは一九二八年だった。二年後一九三0年には舞台を下敷にした映画「ニュー・ムーン」が、また四0年にも同名の映画が公開されている。

そして一九四二年コーネル・ウーリッチ(映画「裏窓」の原作者)がウィリアム・アイリッシュ名義で書いた『幻の女』が出版され、その冒頭には 

The night was young, and so was he. But the night was sweet, and he was sour.(夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった)とあった。

このミステリー小説の名作もジャズのスタンダードナンバーとなった名曲にインスパイアされていたのである。