「対峙」

米国のある高校で生徒による銃乱射事件が発生し、自殺した犯人の生徒を含めて十数名の生徒が亡くなりました。それから六年。

事件で息子を失い、悲しみから立ち直れないままの状態にあるペリー夫妻(ジェイとゲイル)は、セラピストの勧めで自殺した加害者の両親(リチャードとリンダ)との話合いに臨みます。ペリー夫妻の求めに応じたいきさつは描かれていませんが、ここにも葛藤と緊張感のあるドラマがあったと想像されます。

教会の小さな個室で、立会人もなく顔を合わせた四人はぎこちなく挨拶を交わし、リチャードとリンダが気遣って持ち寄った鉢植えをペリー夫妻に渡し、そうして徐々に言葉が交わされてゆきます。

「息子さんに犯行の予兆はなかったのでしょうか。もしご両親が気づいていたなら事件は未然に防げたのでは」。いっぽうで立場は異なっていてもおなじ日に子供を失った感情、子供に対する気持には共通するものがあります。

怒り、悲しみ、憎しみ、困惑、無力感、後悔といった感情が交錯するうちに話合いは進みます。それぞれが発する言葉が胸に刺さる密室での四人の会話劇はどこに着地するのか予測できません。その意味でスリリングであり、圧倒されたミステリーでした。

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見事な脚本はいつしか脚本であることを忘れさせますし、ジェイ(ジェイソン・アイザックス)、ゲイル(マーサ・プリンプトン)、リチャード(リード・バニー)、リンダ(アン・ダウド)の役者陣は当事者同士としか見えません。観客に脚本と演技であることを忘れさせる映画として過言ではありません。

ところで早々に、ペリー夫妻がリチャードとリンダ夫妻を告訴していないことが明かされます。わたしはこの点がずっと気になっていました。愛する子供を失い、喪失感と空虚と血の流れのとまらぬ傷口が心に残されたとき、被害者側の両親は、犯人が亡くなったのであればせめてその両親に限りない責苦と苦痛をあたえたい、犯人が生きているのであれば短時間で終わる死刑では償いにならない、苦痛のうちに死なしめたい、血に報いるに血を以てしたいという気持になるのは当然の成行でしょう。それなのに夫妻は法の世界と関わりを持っていないようです。裁判は十全な慰めにはならないにしても、どうして断念したのだろう。

映画のあといろいろなコメントを読んでいるうちに「修復的司法」と関連づけた議論がありました。ウエブサイトの「NPO法人対話の会」には「犯罪によって直接影響を受けた被害者、加害者、家族、地域の人々が、犯罪が引き起こした害悪への対応に、直接的に関与できる機会」と説明がありました。それではじめてペリー夫妻は法の世界を断念したのではなく、新たな法の世界に足を踏み入れた人たちだと知りました。

俳優フラン・クランツのはじめての脚本、監督作、素晴らしいスタートだ。

(二月十六日 TOHOシネマズシャンテ)