百年の不作

人間がまちがいをしたとき、どんな事態がもちあがるか。

弁護士がまちがいをすれば控訴を引き受けるまで、理髪師のばあいは髪の毛をもっと短く刈り込めばよい、医者だったらお葬いをすれば済む。ならばひとり者はどうか。

薄田泣菫の答はこうだ。

「独身者が間違ひをした時には、死ぬるまでその間違ひと一緖に暮らさなければならぬ」(『茶話』所収「間違ひ」より)

だったら別れるとよいのにとお節介を焼くのは野暮で、離婚未満のところでなんとかいっしょに暮らしているわけだ。

ひとり者が伴侶の選択をまちがった。しかし破局にまでは至らず、渋々ながらともに生活する、つまり不作である。悪妻を持った失敗を「百年の不作」という。「自分のことは棚に上げ、理想像とは程遠い細君を不覚にももらった、と結婚後しばらくたってから漏らす愚痴(する批評)」である。

もちろんこれは男の得手勝手で、男女平等の世のなかで不作の嘆きは夫に限らない。というより女が碌でもないない男と結婚した後悔の不作が多数のような気がする。

なお、うえの「自分のことは棚に上げ」云々の語釈は「新明解国語辞典」のもので「広辞苑」の「一般に、できの悪いこと。失敗作。」「明鏡国語辞典」の「よい人材や作品があらわれないこと」と比較して新解さんがどれほど優れものかがよくわかる。

「百年の不作」と関連することわざに「好き連れは泣き連れ」がある。

「ことわざ選集」というブログには「好いた同士は泣いても連れる、に同じ。恋愛の末に結ばれた夫婦は、お互いに恋人時代の夢が破れて、欠点だけが目につき、家庭生活は不幸になる事が多いが、今更親や世間に苦情をもって行くわけにもゆかず、泣く泣く一緒に暮らすものが多い」と説明があった。

生涯の伴侶と思い定めて夫婦となったのに「好き連れは泣き連れ」で涙の一生となったカップルには同情するほかないけれど、あれこれ比較し、選択するのは人間の宿命であり、厄介は尽きない。総理大臣、議員、社長、学長などで選択にまちがいがあれば不作を通り越して飢饉になるかもしれない。

「人間が、自分自身で、しかも、賢く、選べるものならば、『好き連れは泣き連れ』という問題はない。しかし、ひとが賢くなるには、自分の失敗とその反省が必要である。そして、少々賢くなった時、もう余命がないのが、人間お互いである」(京極純一『文明の作法』)。加えて死んでも反省しないやつがいる。