「ベイビー・ブローカー」

「ベイビー・ブローカー」を観たあと、スタバでコーヒーを飲みながらソウルやプサンの街角を思ったり、「万引き家族」と本作を併せて是枝裕和監督の家族についての問題意識を考えたりしていました。

ひと段落したところで映画のあとのお酒とおつまみを想い、電子書籍を開いて料理本を眺めたところ、そこに『一汁一菜でよいという提案』の著者土井善晴氏が「血のつながった家族がいなくても、お料理して食べる、お料理してもらったものを食べる関係ができれば、そこに新しい家族が生まれているのです」と書いていました。(「おかずのクッキング」2022年3月号)。

読んだ瞬間、これは「ベイビー・ブローカー」を考える補助線だ、いや補助線は失礼かな、そうだ「ベイビー・ブローカー」に「一汁一菜」が加わりわたしのなかで化学反応が起きたんだと思い直しました。

血のつながった家族がいなくても料理が媒介となり新しい家族が生まれる、と土井氏がいえば、是枝監督は、事情あって親が育てられない新生児を預かる「ベイビー・ボックス」に託された一人の赤ちゃんをめぐり、赤ん坊の新しい両親を探し、特別な取引をする自称善意のブローカー(ソン・ガンホ)やおなじブローカー仲間(カン・ドンウォン)、二人のブローカーに合流する赤ちゃんの母親(イ・ジウン)、ブローカーを執拗に追いかける二人の女性刑事(ぺ・ドゥナイ・ジュヨン)などそれぞれ思惑を持った人たちを描いて、そこに「新しい家族」が生まれる可能性を提示しました。こうして日本料理の研究家と韓国を舞台とするドラマを撮った映画監督とは通じあっています。

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わたしには血筋ベースの家族のほかはありません。しかし、必ずしも血のつながりを基としなくても家族はありうるとは考えています。血統を根拠とする家族だけがまっとうな家族という観念に固執するのはいかがなものか、とも。

日本人は、家族は血がつながっていて自然とそこにあるものという意識が強く、そのぶん血縁とは関係なく自分たちで家族を創るという意識が稀薄なような気がします。 性や家族のありようは子育てや教育、福祉などと大きく関わりますから、特定の観念への過度の固執はそれらを柔軟性を欠いた、いびつなものにする危険性を孕んでいます。是枝監督はそのことを韓国においても観察していたのでしょう。

帰宅してTwitterを開くと、松岡宗嗣という方がこの六月に開かれた「神道政治連盟国会議員懇談会」で配布された文書に「LGBTはさまざまな面で葛藤を持っていることが多く、それが悩みとなり自殺につながることが考えられる」「性的少数者の性的ライフスタイルが正当化されるべきでないのは、家庭と社会を崩壊させる社会問題となるから」などと記されていた、とツイートされていました。

(六月二十八日 TOHOシネマズ日比谷)