はじめての平泉

本ブログはほぼ月に一度日記の抄録をアップしていて、ことし四月三十日付の日記抄「『太田南畝全集』」のなかで、レオ・マッケリーについて以下のことを書いた。

この人の作品ではいまだに「明日は来たらず」と「人生は四十二から」をみる機会に恵まれないのが残念でならない。「明日は来たらず」は「東京物語」の発想の素になった映画としてつとに知られているが、貴田庄『小津安二郎と「東京物語」』によれば、野田高悟は本作をみていてかすかな記憶を語っている、いっぽうの小津はこれをみていないことが実証されていた。

ところが調べ物をしていて以前の日記を読んでいたところ「明日は来たらず」をわたしは鑑賞済みで、二0一四年六月十日にこう書いている。

〈一九三七年公開レオ・マッケリー監督「明日は来らず」をようやくDVDでみた。「東京物語」の発想の素となった作品といわれており、長年気になっていた。老夫婦の自宅が売却され二人は子供たちに別々に引き取られ離ればなれになってしまう。息子夫婦、娘夫婦の家にあって二人ともうまくいかない。

まもなく老夫婦の夫はカリフォルニアの別の子供のところへ、妻は女性専用の老人ホームへ。夫の出立を見送りに妻はニューヨークにやって来る。二人は半世紀前に新婚旅行で泊まったホテルで愛と思い出を確かめ合う。二人の最後のデートになるだろうと予感しながら。まことによくできたほろ苦い人情劇だ。

ホテルの二人がワルツを踊ろうとフロアーへ行くと曲がジルバ?に変わり、戸惑ってしまう。それをみたバンドリーダーがLet Me Call You Sweetheartという古いロマンチックな曲に変える。上手い演出!「東京物語」で笠智衆が口にした「言わば他人のあんたの方がずーっとよくしてくれた」のセリフを思い出した〉

記憶力の衰えを嘆き、淋しさを覚え、念のため「人生は四十二から」で検索をかけたが、ヒットしなかったからこちらはたしかに未鑑賞であった。

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十一月十四日朝、東北新幹線で東京駅を発ち一ノ関駅へ向かった。新型コロナの新規感染者が減少したおかげで、二0一九年十二月にマルタ共和国を旅してからようやく国内の旅とはいえ旅行ができるようになったのがうれしい。

一ノ関駅へ着くとバスで平泉へ、世界文化遺産センターで概略的な知識を教わり、奥州藤原氏四代が眠る金色堂を中心に見学しているとおのずと『奥の細道』の雰囲気を味わうことになる。藤原氏の栄華と「夏草や兵どもが夢の跡」、「五月雨の降残してや光堂」そこに挟まれる源義経武蔵坊弁慶たちのエピソードは日本史の醍醐味のひとつとしてよいがわたしの歴史の知識が豊かであればもっともっと楽しめただろう。

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中尊寺のあとは平泉の浄土世界を象徴する金鶏山、古来より仏教文化が息づいていたことをいまに伝える白鳥館跡、北上川に突き出た半島状に築かれ、奥州藤原氏の経済上の拠点だった柳之御所遺跡(歴史の勉強をしながら、子供のころに流行っていた歌謡曲「北上夜曲」を心のなかで口ずさんでおりました)、三代秀衡が金鶏山に沈む夕日を阿弥陀堂から後光がさすように取り込んだ浄土庭園無量光院跡を廻った。有名な夕日スポットで夕日をみられて天候に感謝した。

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十一月十五日。岩手県一関市、滝の湯いつくし園に宿泊し、翌朝早く起きて厳美渓を散歩した。とちゅうに日本瓦のバス待合所がり、トタン屋根の待合所はみた記憶があるが瓦ははじめてでなんだかお得な気分。そして厳美渓は見事なものだった。栗駒山を源に流れる磐井川が巨岩を侵食し、およそ2kmにわたる渓谷美をみせている。一週間ほどまえが紅葉のさかりだったそうだが、そんなこといっては罰があたります。

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朝食後、バスで奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡が造営した毛越寺(もうつうじ)、平泉最古の寺社である達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂中尊寺に残る荘園絵巻に描かれた景観が現存する骨寺村荘園遺跡等を観光した。

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なお毛越寺の伽藍は中尊寺をしのぐものだったそうだが当時の建物はすべて焼失している。ありがたいのは庭園が良好な状態で残されていて平安時代の浄土庭園の素晴らしさをいまに伝えている。

そして歴史公園えさし藤原の郷へ。ここはレプリカによる奥州藤原氏の歴史と文化の再現を目途としたところだが時代を問わずしばしば映画、TVのロケ地となっている。ここで牛車に座るなんて思いもよらなかった。えさし藤原の郷をあとに一ノ関駅から新幹線に乗り、午後九時過ぎ上野駅に着いた。

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先日NHKで「蝉しぐれ」(黒土三男監督)をみて藤沢周平を再読したくなり、電子本でまとまったものがあればと調べてみたが、残念ながら集成されたものはなく、書目をながめるうちに、これまでご縁のなかった山本周五郎の作品がまとめられていた。著作権切れによる廉価版は下流年金生活者にはありがたく、さっそく短篇集にとりかかった。

時代小説ではあるが、いまのところ人情の機微にふれる話が主で武ばった話はあまりない。

「ちゃん」で火鉢をつくる職人の重吉は「……おれはおれだ、女房にゃあ済まねえが、おらあ職人の意地だけは守りてえ、自分をだまくらかして、ただ金のためにするような仕事はおれにゃあできねえ」と語る。

浮かんでくるのは、協調性よりも職人としての生き方を重くみる人間像で、ことわざにいう「一輪咲いても花は花」という思いと矜恃はまた作者山本周五郎のものではなかったかと想像した。誰知らぬともそっと咲いた一輪を丹念に育てあげ作品とする、短篇集から受けた印象である。

そのうえでいくつかの作品に感じた違和感について。

「『こいそ』と『竹四郎』」は明るく爽やかな作品だが、娘の婚礼を何とかして止めたい男が「私は貴女を愛しているんです」といい、娘は「いったい貴方になんの権利がありますの、なんの権利があってこんなにわたしを侮辱なさいますの」と応じる。

こうした会話が時代小説にあると気になって落ち着かない。

江戸時代の武士の世界で「私は貴女を愛しているんです」という口説きがあったのか。そうして縁談に口を挟む男に女が「いったい貴方になんの権利がありますの」とかいったものだろうか。

権利という日本語の由来は西周によるもの、あるいは丁韙良訳の「万国公法」(一八六四年)からの借用とする説がある。どうやら権利については江戸時代の武家の娘が口にするのは作家の勇み足としてよいだろう。

「私は貴女を愛しているんです」はどうか。こうした表現はあったのかもしれないが、仮に「貴女がいとおしい」であれば「愛している」に覚えた違和感はなかった。

一九九三年に八十二歳で亡くなった野口冨士男の晩年の作に五十数年をともに過ごした妻をみとった「臨終記」(「新潮45」一九九三年六月号)があり、作者は「今の世代の人たちとは違って、八十一歳になった私のような世代まで、日本語には愛するという言葉がなかったように思う。愛でるというような読み方のものはあったが、それは愛するという言葉の意味、英語でいうラヴとはちょっとニュアンスが違う。妻を愛していますという表現は、どうも私らの世代としては口に出すことがためらわれる」と述べていて、愛するという日本語のたどった道の一端が示されている。

もうひとつ。「しじみ河岸」で 南町奉行所の吟味与力、花房律之助が亡父について「父が死ぬときに、遺言のようなことをいった、父の誤審がもとで、無実な者を死罪にしたことがある、誤審ということがわかったのは、三年もあとのことだったそうだ、父はそれ以来、両親に責められて、一日も心のやすまるときがなかった、もともと人間が人間を裁くということが間違いだ。しかし世間があり、秩序を保ってゆくためには、どうしたって検察制度はなければならないし、人間が裁く以上、絶対に誤審をなくすこともできないだろうー父はそういった」と語る。江戸時代の話にしてはあまりにも近代的な語り口だ。

山本周五郎の作品はわかりやすく、おもしろい。ところがときに江戸時代の物語とは思えない言葉遣い、筆遣いが現れる。法制史の専門家ではないから絶対とはいわないけれど、誤審や検察制度という用語が江戸時代に用いられたとは考えにくい。わかりやすくするために作者がはまった落し穴だったのではないか。

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出久根達郎『隅っこの昭和』に寄せて坪内祐三が「出久根青年はノンポリだったけれど、左翼学生である友人に誘われ、オリンピック開会式の日、『東京五輪反対・東京七輪大会』(空き地に七輪を持ち寄りサンマを焼いて酒を飲む会)を開くことになったが集まったのは結局二人だけだった」と書いていた。五輪より七輪、いいな。

昭和三十九年の東京オリンピックにたいしてもほんのかすかに反対の動きはあったんだと感心しながら池田清彦『どうせ死ぬから言わせてもらおう』の頁を繰っていると、高校二年生のとき東京五輪があり、学校は授業の代わりに競技の観戦に行くこととしたが、著者は「高校生の本分はオリンピックを見ることではなく、勉強することでしょう」と教師に意見し、オリンピック見物に行くことを拒み天邪鬼の数名の同級生とがらんとした教室で遊んでいたとあった。

そのころ、地方の中学三年生だったわたしはオリンピックへの反対運動なんて思いもよらなかった。五輪に代わる七輪大会というユーモアのある抵抗も、池田氏のスジをとおした行動も立派な歴史の証言となっている。

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ほぼ毎日、上野公園を走ったり散歩したりするからおのずと東京スカイツリーが目にはいる。ただしおなじみすぎて、そこから東京を一望したことはない。

高いところからの眺めでいえば「東京物語」で紀子(原節子)が亡夫の両親(笠智衆東山千栄子)を東京見物に案内するシーンがあり、浅草の松屋百貨店屋上への階段で街を一望し「お義兄様の家はこちらの方角、わたしのアパートはこちら」と説明していた。しかしながら二0一0年を以て同百貨店は四階から上の営業を停止していて日本最古の屋上遊園地もいまはない。

東京物語」が公開されたのは一九五三年(昭和二十八年)だった。そのころ東京の街を一望するのに百貨店の屋上は格好の場所だった。東京タワーの竣工は五年後の一九五八年十二月二十三日だった。もしも「東京物語」の企画がこのあとであれば紀子は亡夫の両親を東京タワーに案内したかもしれない。東京タワー333m、スカイツリー634m。

東京タワーの竣工は一九五八年、スカイツリーは二0一二年。この半世紀あまりに333mの技術力は634mにまで高まったと思いたい。余波として東武伊勢崎線の駅名が業平橋駅から東京スカイツリー駅に変わってわが国を代表するイケメンのプレイボーイが割りを食った。不忍池でときにそんなことを思う。

と、ここまで書いて書棚にある石井妙子原節子の真実』が目にはいった。小津作品のファンとして原節子関係の本は何冊か読んでいるが本書にある「秘められた恋」は知らなかった。ひとつはベルリン・オリンピックの陸上選手矢沢正雄との噂。応召を機に彼女への思いを断ち切ろうとした矢沢だったが、戦地の彼のもとには原節子からの手紙や慰問袋、スナップ写真が送られてきたという。

もうひとつの「秘められた恋」は東宝で脚本を書きながら助監督をしていた青年で、当時の名前は清島長利。相思相愛だったが節子の義兄熊谷久虎の知るところとなり、くわえて東宝もスター女優の恋愛を嫌ったために清島は東宝から追放され松竹へ移籍した。昭和十五年ごろのことで、原節子は二十歳だった。

清島長利は戦後、椎名利夫のペンネームで脚本を書き、監督にもなった。わたしはその名前を知らずネットで調べてみたところ一九四0年の「屋根裏の花嫁」から七0年の「戦いすんで日が暮れて」まで五十八の作品がリストアップされていた。残念ながら生没年の記載はなかった。

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勤労感謝の日は久しぶりの神宮外苑で人に酔い、秩父宮ラグビー場ラグビーに酔い(早稲田30vs慶応23)、新宿の蕎麦屋さんでのアフターマッチファンクションで酒に酔った。翌日は羽田空港から朝一便でふるさと高知の実家へ六、七年ぶりに帰り、きょう二十六日午後の便で帰京した。

 

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十一月の10kmヴァーチャルマラソン

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