故郷も故旧も遠くにありて・・・

オンシアター自由劇場による映画「上海バンスキング」がネットにあり、さっそく視聴させていただいた。この芝居と同時代にいられたことはわたしにとって人生の大きなしあわせのひとつである。公開された一九八八年か翌年に池袋の文芸坐地下でみているがソフトは入手できなかった。

舞台の演出者、主役そして映画の監督、主役の串田和美は「舞台版から映画版に変奏された物語」として撮影したという。舞台はテレビで何度か放映されていて、見較べると監督の意図、狙いは十分に活かされている。ただ主人公の一人松本亘(バクマツ)の嫁の林珠麗(リリー)の存在感を軽めにしてあるのが惜しい気がした。

その林珠麗役を初演で演じたのが余貴美子だった。当時は、彼女も串田和美笹野高史小日向文世も名前さえ知らず、知っていたのは吉田日出子だけだった。

初演から数年にわたり東京、京都、神戸、高知でその舞台に接したが、その後のシアターコクーンでの舞台をみられなかったのは残念だった。

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大田南畝『半日閑話』巻十六にある巷の出来事もしくは噂ばなし。

青山原宿に住む同心(下級役人)の女房が蚊帳のうちで寝ていた夫を一刀で突いたところ、即死にはいたらず女房は逃げ、同心は追いかけた。騒ぎを知った大家の夫婦と子供が外へ出てみると、女房は追ってくる夫をもう一突きした。腹わたもあらわな凄惨な光景に大家はおろおろするばかりだったが、その妻は同心の女房から刀をもぎ取り、それ以上の騒動にはならなかった。

同心夫婦はもともと不倫のあいだがら、当時のことばでは不義密通の関係で、妻の先の亭主を毒殺して夫婦に納まっていた。このとき女は四十、男は二十、そこまでしていっしょになったのに、いまになって夫が別の女と関係していることに妻は立腹して刃傷沙汰に及んだのだった。そうして夫は落命し、妻は下獄した。

不倫の二人が女の先夫を殺したところで、フィルム・ノワールのファンはジェームズ・M・ケイン『殺人保険』を映画化したビリー・ワイルダー監督「深夜の告白」を思い出すだろう。ただ南畝先生名付けた「青山原宿夫殺し」は子供が血刀を見て泣くので、刀をもぎ取った意気盛んな大家の女房の存在感が大きく、彼女はのちに御徒目付から褒美を頂戴したそうだ。

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一九一八年から二0年にかけてスペイン風邪が大流行するさなか与謝野晶子が「予防注射をしないと云ふ人達を多数に見受けますが、私はその人達の生命の粗略な待遇に戦慄します。自己の生命を軽んじるほど野蛮な生活はありません」と述べているのを石井正己「戦争になぞらえる危険 感染症対策を語る言葉」(九月十三日、毎日新聞夕刊)で 知った。

東日本大震災を機に関東大震災についての評論やエッセイを収録した本がいくつか出版されている。新型コロナ感染症禍のいま、これにならってスペイン風邪についてのアンソロジーの刊行を望みたい。

与謝野晶子の言葉を引いた「戦争になぞらえる危険 感染症対策を語る言葉」の趣旨は、感染症対策をかつての軍事用語を援用して表現する「野戦病院」や「総力戦」などについて、それが国民の容認する常識になることの危険性を説いたもので、 細菌やがんを社会に戦争を挑む敵であるとみなす修辞で語ることに警鐘を鳴らしたスーザン・ソンダク『隠喩としての病い』をふまえている。

うなずくいっぽうで疑問もある。というのは菅内閣感染症対策について「旧軍が兵力の逐次使用に陥ったのは、正確な情報収集を怠って敵の戦力をあなどり、根拠のない楽観にもとづく作戦を立てた」(一月八日、東京新聞)といったふうに、軍事作戦の教訓は感染症対策の批判の根拠となっているばあいもあるからだ。なお文中の「兵力の逐次使用」は小出しにすることをいう。

 これまでわたしは病いを戦争と見立てるなど考えもしなかった。

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「ハウス・オブ・カード」はシーズン1~4のあとケヴィン・スペイシーのスキャンダルで保留にしてあったが、もうケジメをつけなければとこのほどシーズン5、6を一気にみて終了した。シーズン4まではテレビドラマ史上最高傑作のひとつと評価していたが、最後は息切れでようやくゴールした感がある。もととなった英国版「野望の階段」もみていて、米国でパワーアップした「ハウス・オブ・カード」には舌を巻くほどだっただけにラストの出来は残念だった。

長期にわたる番組の幕の引き方はけっこう難しい。日曜日の夕方心待ちにしていた「シャボン玉ホリデー」だったのに終了したときの記憶はなく、「ER緊急救命室」はジョージ・クルーニーアンソニー・エドワーズが降板したあとは興味が薄れた。

それはともかくテレビ局の「ハウス・オブ・カード」Tシャツプレゼントに応募してラブレターまがいの感想を寄せ、抽選に当たったのはよい思い出となった。

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風来山人こと平賀源内は、春宵一刻値千金と讃えた古人のいっぽうに浮世を三分五厘と捨売にした者もいて、しかし実際には春宵一刻に千金出して買うた者も、三分五厘で売れる出来合いの浮世もないと云ったとか。これを評して大田南畝は「つまる所は能も悪もいひなし次第のうき世にて、うき世の定なきは人の心の定なきなり」とした。

その浮世を南畝は「背面達磨の画像を見て やよ達磨ちとこちらむけ世の中は月雪花に酒と三味線」とよんでいる。こんな浮世を三分五厘にしてはいけない。

いまわたしは本を読み、映画、テレビドラマを鑑賞し、音楽に親しみ、長距離を走る、それぞれの意欲は旺盛なのに、文章を書きたい気持はどんどん減退していて、以前は書くことなくてもとりあえずパソコンのまえに座っているうちにすこしは知恵も浮かぶだろうなんて思っていたのに、いまはなかなか座る気になれず、身体よりこの気分に老いを感じている。

おなじく南畝の一首「いたづらに過る月日もおもしろし花見てばかりくらされぬ世は」。

老後の生活の要諦は「いたづらに過る月日」とどんなふうにつきあっていくかにある。

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翻案というものがある。現代の文学シーンではほぼ無縁といってよいだろう。辞書には、前にだれかがした事柄の大筋をまね、細かい点を造り変えること、特に小説・戯曲などについていう、とある。永井荷風『小説恋と刃』という翻案小説を読んだ。もとはエミール・ゾラの長篇小説『獣人』で映画にもなっている。

『獣人』について同書の小引には「人間の怖るべき獣性を描きしものにして、一篇の主人公としては、酒毒の遺伝より来る不思議なる色情狂の患者を選びたり。多数なる(ゾラ)先生の著作中、其の最も変化に富み、波瀾極りなきものを問はば、恐く此のベンガジを以て第一と為べし」とある。

わたしは『獣人』が荷風のいうほどに評価の高い作品と知らなかったけれど、たしかにスケールは大きく、ストーリーは起伏に富み、ミステリーとしてもよくできた作品だと思う。列車の大脱線は日本が舞台ではスケールが大きすぎたかな。ちなみに映画化は一九三八年、監督ジャン・ルノワール、主演はジャン・ギャバンだった。

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孤狼の血 LEVEL2」は平成のはじめ広島県呉原市(架空)で暴対法の施行を前に裏社会の抗争をとりあえず一段落させ、秩序の構図を描いた若手の刑事日岡秀一(松坂桃李)を主人公とする物語だった。前作「孤狼の血」は柚月裕子の同名小説を原作としていたが、新作は小説では描かれていない映画単独のオリジナルストーリーで、どちらにせよ三作目が製作されるよう大いに期待している。

なお小説の二作目は『狂犬の眼』。なかに、ヤクザの義誠連合会会長国光寛郎が広島県警日岡秀一に警察とヤクザの違いを語るシーンがある。

「上意下達の絶対的縦社会という意味では、ヤクザも警察官も同じだ。だが、警察官は上司が嫌なら、異動願を出せる。いざとなれば最後は、退職。一方ヤクザは、いくら親分と反りが合わなくとも、盃を返すことは容易ではない。そこには必ず大義がいる。一度呑んだ盃は、死ぬまで付いて回るのがヤクザ社会だ。おまわりさんみたいな、勝ってできんのや、わしら」。

そうか、親分を選択できるヤクザはまちがってしょうもないのにつくと一生苦労しなければならないから、盃を交わすにあたっては相当に人間を見抜く力が要求される。睨みつけたり、目つきが鋭くなったりするのはそのためかな。

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友人からT氏が亡くなったと知らせがあった。同業だった方で淡きこと水のごとき仲だった。奥様も存じ上げ、お嬢さんが高校に進学された際には頼まれて保証人をさせていただいた。わたしより三つ下の享年六十七、いまの世の中、若過ぎるよなあ。これから先、老衰天寿とかPPK(ピンピンコロリ)をともに望みたかった。年下の方の訃報は堪える。

いま、ことし三月三日に九十三歳で亡くなった小沢信男の遺著『暗き世に爆ぜ 俳句的日常』(みすず書房)を読んでいる。最終の頁にあるのは雑誌「みすず」に連載されていた「賛々語々」の一篇となる予定だった書きかけの遺稿「花吹雪」で

「あっ彼は此の世に居ないんだった葉ざくら 澄子」一句が引かれている。

あと何年かするとわたしもT氏をそのようにして思い出すかもしれない。

これとは反対に、まだご存命だったか!の方もいて、小沢氏の遺稿にはおなじ作者の一句

「花吹雪あの人生きていたっけが 澄子」がある。(池田澄子句集『此処』朔出版二0二0年刊)。

ふと気づけば俗世から退場されて出会えない人がいる、そしてまだ生きていたんだ、の人がいて世の中である。出会えない残念ばかりではつまらないと、生きていたっけのあの人と会ったりするのもご用心で、忘れていたわが身の醜態をしっかり覚えていて話題にされたりすれば再会のよろこびなど吹き飛んでしまう。故郷も故旧も遠くにありてのほうがよいのかもしれない。

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遺稿に「あっ彼は此の世に居ないんだった葉ざくら 澄子」を引いた小沢信男は「たとえば池内紀。たとえば坪内祐三。」と続けていて『暗き世に爆ぜ』には池内紀(1940-2019)坪内祐三(1958-2020)のお二人の追悼文が収められている。小沢氏は一九二七年生まれだから、こんなことになるとは思っていなかっただろう、お二人とも「突如に居なくなりました」とある。

「いまさら気づけば、おおかたがもはや死者ではないのか。現況は芥川賞直木賞も関心がなくて知らぬ人ばかり。つまり私は、おおかたあの世の人たちと共に生きている。後期高齢者に通例のことか。その大量の想念を想えば、この地球上には、あの世が霞のようにたなびいている」

小沢氏の感懐をわたしが実感、体感するにはまだ年齢は不足しているが、音楽シーンに限れば親しむのはほとんどジャズのスタンダードナンバーや昔の流行歌ばかりで、おおかたあの世の人の歌と生きている。

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書架を眺めているうちに懐かしくなって軍司貞則『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス」』(文春文庫)を手にした。およそ四十年ぶりの再読で、大まかな内容は頭に入っているけれど細部を読み返すのがうれしく、これに合わせて映画「第三の男」の日本語吹替版をはじめて見た。

大学生になって上京し、いまはない大塚名画座で名前だけ知る「第三の男」を上映しているのを知り、あまりに素晴らしくて翌日もう一度大塚へ向かった。一九六九年か翌年のことだった。二0一一年に退職してから二度ウィーンを旅した。わたしにとってこの都市はクラシック音楽ではなく「第三の男」の町である。

はじめてのウィーンではザッハーホテルに入り、カフェモーツァルトに座っただけで時間の関係から他には行けなかった。二度目のツァーではパックツアーの仲間から外れてひとりで街を歩き、トラムで観覧車のある公園やラストシーンの墓地などロケ地をめぐった。大塚名画座からはや半世紀以上が経つ。

フィリップ・マーロウナチス統治前後のベルリンに置いたらどうなるかという発想から生まれたフィリップ・カーのハードボイルド小説のひとつに『ベルリン・レクイエム』がある。ときは第二次世界大戦直後、「第三の男」の時代のウィーンで大観覧車や中央墓地も描かれている。なかで私立探偵グンターが「ウィーンの人々は、"心地よさ"を何よりも愛する。酒場で、食堂で、コントラバスとバイオリンと、アコーディオンとチターから成る四重奏団の伴奏に合わせて、心地よく浮かれ騒ごうとする」と音楽シーンを紹介してくれている。

『滅びのチター師』を読んだ限りではアントン・カラスは独奏に終始していた。おそらくカルテットを組んでの演奏はなかったと思う。というのも同書によると「第三の男」はウィーンでの評判はよくなく「ウィーンの栄光と伝統を侮辱した映画に、生活のために喜び勇んで協力したカラスの存在は不快そのものであった」。

映画音楽の歴史に残る傑作「ハリー・ライムのテーマ」はかつてのウィーンでは売国奴的行為による産物だったとしても現在のウィーンの人々もおなじように思っているのだろうか。

先年のロケ地巡りで何度か道を訊ねた際に「第三の男」を口にしたが、みなさんにこやかに教えてくれました。

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過日NHK伊東四朗さんを特集した番組を放送していて氏が電線音頭という歌と踊りで評判をとったのを知った。三波伸介戸塚睦夫伊東四朗てんぷくトリオは活動時期がわたしの中学高校のときと重なっていてリアルタイムで知っているが、社会人になってからはあまりテレビをみなくなったから「おしん」は名前を聞くだけで彼女の父親役がこの人だったとはじめて知った。番組で伊東さんは「一日でも長く喜劇役者として現役でいたい」と語っていた。これから先はお付き合いを願っておこう。 

十月十七日に予定されている東京マラソンの出走権を得たので、久しぶりに二十キロ近くを走り、さあもう少し距離を伸ばそうと思っていたところへ、ひと月手前の九月十七日にあっても東京の緊急事態宣言が解除できないので来年の三月六日に延期すると発表があった。新型コロナ事情からすれば妥当な判断だと思うが高齢者なのでいつまでフルマラソンを走れるのやら心配が募る。そこでひとまわりうえの伊東四朗さんを見習って「一日でも長く長距離を走りたい、大会に出たい」とつぶやいた。

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大相撲九月場所は横綱に昇進してはじめての場所で照ノ富士が優勝した。場所中はテレビ観戦しなければならず、それに人出も多そうだから場所が終わるのを待って両国界隈を散歩した。永井荷風ゆかりの地をめぐる散歩、プチ旅行の一環だからおめあては柳橋である。かつての花街で有名だった料亭はいまマンションの一角を占める状態で風情を欠くけれど、神田川隅田川に注ぐ手前に浮かぶ屋形船は健在で情緒がある。

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柳橋は新橋とともに東京を代表する花街だったが、柳橋が江戸以来の商人や旗本が贔屓としたのにたいし、新橋は薩長をはじめ地方出身の政府の役人が馴染みだった、といったことが「春の夜や女見返る柳橋」「贅沢な人の涼みや柳橋」の子規のふたつの句とともに橋の傍にあるボードに書かれてあった。

「そもそも柳橋の地はそのむかし江東水郷の風林おのづからここに遷り来りし処にして、風俗澹雅、意気磊落を旨となしたれば、由来文墨の名士多く此地を愛したるも宜なるかな」、他方新橋は名古屋、秋田、馬関、北海道なぞからの出稼ぎが多く、座敷に上がれば帝国議会の傍聴席にいる心地がして、さすが柳橋に来ると生え抜きの東京者が多く、河豚や鮭、膃肭臍の自慢話を聞くのを免れることができると荷風柳橋を讃え、いっぽうの新橋には手厳しい。(「東京花譜」)

荷風が尊敬した元幕臣成島柳北は招かれても新橋の酒楼には上がらなかったとか。

他方で荷風には新橋を舞台とする短篇集『新橋夜話』があり、作家として新橋の観察に怠りなかった。

夜は晩酌しながらYouTube桂文楽柳家小三治の「船徳」の聴きくらべをした。遊びが過ぎて勘当された若旦那の徳三郎が身を寄せている船宿大枡は柳橋の船宿である。

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9月の10Km走。

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