「アイダよ、何処へ?」

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のなか一九九五年七月に起こったスレブレニツァの虐殺を再現した本作の再現力はたいへんなもので、わたしはひたすら息をのんでスクリーンを見つめていました。事態を再現するという映画のもつ力が最大限に発揮された作品だと思います。

セルビア人のスルプスカ共和国軍により推計八千人の、イスラム教徒の多いボシュニャク人が殺害されました。この映画は犠牲となった人々に捧げられています。

再現する力とあいまって問いかける力も、これからさきこの作品を忘れ難くするでしょう。いや、そういっては生易しい、ここには現在のアフガニスタンをはじめとする世界の惨状を考える契機が具わっているのですから。

具体には、虐殺が起こったとき通訳として国連軍に雇われていたアイダとその家族(夫と十代後半の二人の息子)の運命を通して、誰を救えなかったのか、なぜ救えなかったのかの問いかけで、「サラエボの花」「サラエボ、希望の街角」のヤスミラ•ジュバニッチ監督はそのなかに一方を悪と決めつけ断罪する危険性をも問いかけていると思いました。

たしかにスルプスカ共和国軍の参謀総長ラトコ・ムラディッチに率いられたボスニア・ヘルツェゴビナセルビア人は虐殺を行い、武力で他民族を追い出しました。セルビア人の悪行にたいする批判に異論はないのですが……

ちなみに国際手配されたムラディッチが逮捕されたのが二0一一年、裁判で終身刑が言い渡されたのが二0一七年、そして刑が確定したのがことし二0二一年です。

f:id:nmh470530:20210922185607j:image

二0一六年に旧ユーゴスラビア地域を旅行し、わずかではありますが内戦の傷痕を目の当たりにしました。そのとき予習復習として読んだ何冊かの本のなかにセルビア人の悪行はプラスαして描かれる傾向があるという指摘がありました。ドラマのなかの旧ユーゴスラビア生まれの悪役の出自を設定するにしても、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナではなくセルビア出身とする場合が多いようです。

米原万里さんは『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(文春文庫)に、国際世論形成は圧倒的に正教よりもカトリックプロテスタント連合に有利で、ここからもセルビア正教の苦境が察せられる、宗教面での不利は情報戦争の敗北に直結していたと述べています。

また『ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争』(講談社文庫)の著者高木徹氏は「世界中に衝撃を与え、セルビア非難に向かわせた『民族浄化』報道は、実はアメリカの凄腕PRマンの情報操作によるものだった」と訴えています。

その凄腕PRマンとして知られるジム・ハーフは「ボスニア・ヘルツェゴビナ政府との仕事では、セルビアミロシェビッチ大統領がいかに残虐な行為に及んでいるのか、それがマーケティングすべきメッセージでした」と語っていて、そのための効果的なキャッチコピーが「民族浄化」でした。

そうしたからといって真実に到達できるはずはないのですけれど、この映画のあとではやはり考え込まざるをえません。

(九月二十一日ヒューマントラストシネマ有楽町)