「逃げた女」

女は結婚して五年、そのかん一度も離れたことのなかった夫がはじめて出張となり、彼女はソウル郊外にいる女ともだちを訪ねます。面倒見のよかった先輩は離婚していまは親しい女性といっしょに生活してい、もう一人の先輩は高収入で気楽な独身生活を楽しんでいます。そして彼女はたまたま旧友とも出会います。彼女と旧友の夫とは以前に揉めごとがあったようで、女は旧友に過去の過ちを謝っていました。

女はふたりの先輩と旧友に「愛する人とは何があっても一緒にいるべき」という夫のことばを繰り返します。けれど彼女が語りかける三人の女には「何があっても一緒にいるべき」男はおらず、それどころか喉に刺さる小骨のような男の存在が垣間見されます。夫のことばを繰り返す女のしあわせの確かな手ざわりもわたしはことばほどは感じませんでした。

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食事をし、お酒を飲み、適度に親しく何気ない会話を交わしながらともに過ごす時間、まったりとしたひととき。そのなかで、女たちは心の窓を開いたり、閉じたり、たわいない語らいに含みを持たせたりするうち微かな不安や孤独を含んだ日常がちょっぴり露わになります。

あとはすべてスクリーンを見つめ、思い出しながら想像するほかありません。ホン・サンス監督の仕掛ける想像への刺激に引き込まれる方もいれば、反対にあまりに少ない材料に不満を覚えた方もいらっしゃるでしょう。なにしろ上映時間は七十七分なのですから。わたしはといえば想像力は極めて乏しいくせに前者の立場にあるとしておきましょう。

ラストシーンの海ではさざ波が寄せては引いていました。大波とか台風のような事件はなく、あるのは暗喩として提示されたさざ波をめぐるさまざまなことがら。

「いたづらに過る月日もおもしろし花見てばかりくらされぬ世は」(大田南畝

花を見て暮らす日常に代わって、ここにはさざ波を想起させる「いたづらに過る月日」に潜むスリルとサスペンス、逃げることの冒険があります。それらをあえて総称すればおもしろさがあると思いました。

(六月十五日ヒューマントラストシネマ有楽町)