新コロ漫筆~「行蔵は我に存す」

反共タカ派ニクソン大統領はベトナム戦争に終止符を打ち、中国と国交を結び、消費税反対だった村山富市首相は税率引き上げを認め、東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長森喜朗氏はわが国を神の国と讃える超のつく国威発揚論者だが二月三日の日本オリンピック委員会JOC)臨時評議委員会での女性差別発言により「東京五輪会長の国家的な性差別主義の恥」( 英紙フィナンシャル・タイムズ)といった批判を受けずいぶんと国の評判を落とした。いずれもときに政治家は自身の信念とは真逆のことをしたり、結果をもたらしたりする事例である。

その発言は「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。(中略)発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります」「私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、七人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです」といったもので国威はともかく気分感情は大いに発揚したとおぼしい。

まさか与太話をするために会議に出席されたのではあるまい。だからわたしは発言は自身の持論を述べたと理解している。

ところが一夜明けると謝罪、撤回してしまった。ほんとにそれでよかったのか。ひょっとして発言への批判にわけがわからず閉口しながら謝罪会見に臨まれたのかもしれない。いずれにせよ安易な謝罪、撤回、世論への迎合より自身の考え方や発言についてより詳しく説明することが大事だったと思う。ファシズム共産主義の国家とは違いそれが出来るのが自由主義国家の優れたところだ。

これまで経験し、考え、信じてきたことを一夜明けて撤回するなど粉飾としか見えず、わずかな時間の反省などしょせん大したものではない。しかも後日の辞任表明では「私どもとしては、あくまでオリンピック、パラリンピックを開催するという強い方針で、今、準備を進めていた矢先でありまして、そういう中で会長である私が余計なことを申し上げたのか、まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども、そういうとまた悪口を書かれますけれども、私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども。まあ女性蔑視だと、そう言われまして」とまで述べているのである。

「行蔵は我に存す。毀誉は人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候」(自身の行いは自らの信念によるものである。貶したり褒めたりは人の勝手であり、私は関与しない)。

福沢諭吉が元幕臣でありながら明治政府に出仕した勝海舟榎本武揚に批判を加えた「痩せ我慢の説」に対する勝海舟の返事で、森氏はこれを体現できる貴重な機会を逸したのを氏のために悔やむ。真意や詳しい説明をうかがっても氏の所説には賛成できないとしても信念に殉じる姿勢には共感を覚えたかもしれない。説には反対しても節は讃えたかもしれない。

結果は「行蔵は我に存す」を示さぬまま森氏は「政治家としての経験を生かした最後のご奉公として今までやってきた」会長職を辞任した。巨視的には新型コロナに翻弄され屈してしまった。

山縣有朋が亡くなった際、石橋湛山は「死もまた社会奉仕」という評論を書いた。個人の死の悲しみとは別に、社会に新陳代謝は不可欠、との趣旨だ。森氏には、会長の交代、新陳代謝もまたご奉公であると言葉を贈りたい。

 

附記

はじめて聞く名前だったが、ロンドンブーツの田村淳という方が、森会長が聖火ランナーの密集対策について言及した際に「有名人は田んぼ(の沿道)を走ったらいいんじゃないか」などと発言したのに反発し「聖火ランナーを辞退させていただこうと思っております。正式ルートできちんと事務所を通じて事務局の方には伝えました」と表明した。えらいもんだなぁ、『たった一人の反乱』(丸谷才一の小説)じゃないかと目を見張った。たった一人の強さ!いずれ芸も見てみたい。