命なりけり・・・

七月に10キロヴァーチャルマラソンを走りました。緊急事態宣言で中断していた毎月の催しがようやく再開して、この日の走りが宣言からあとわたしのはじめてのレースとなりました。

六時から十二時のあいだに各自が定めたコースをGPS付アプリで計測して送付し、主催者が集計して順位、タイムを公表するというのがヴァーチャルの仕組みで、いわば「曲がりなりのレース」といったところでしょうか。わたしのコースはいつもどおり、ホームグラウンドとしている不忍池の周回でした。

まもなく七十歳を迎えます。古稀の記念に「曲がりのない」フルマラソンを走ろう、できれば海外のレースでフィニッシュして七十の坂を「超えた!」と叫びたいと考えていたのですが現状では「曲がりなりのレース」にならざるをえません。せめて記念までヴァーチャル(仮想)にならないよう心がけています。

「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中山」(西行)。

これまで何歳までは走りたいとか思ったことはなく、今後もおなじく走れるだけ走り、レースに出たい、なんだか「命なりけり長距離走」の様相です。

いっぽう西行をふまえた和歌に「このたびはまたこゆべしとおもふとも老いのさかなりさ夜の中山」( 宗長)があります。

作者宗長は連歌師宗祇の高弟だった人。西行の歌に似ているけれど、思いは真逆で、生きながらえてもう一度坂を越えようとする西行にたいし宗長は坂越えを全うできるかどうかわからない不安の裡にあります。

走るとなれば「さ夜の中山」を前にしてたたずんではいられない、「命なりけり長距離走」なのですが、他方長いあいだ親しんできた本や映画となるともう新しい作品に手を伸ばさなくてもいい、これまで来た道を引き返して、むかし読んだ本や鑑賞した映画に再会したい気持が強く、「またこゆべしとおもふとも」といった思いはもう稀薄になっています。

方向は反対でも走り、歩くのに変わりはありません。走りにファイト、想い出の本や映画よありがとう、といったところにいまのわたしの老いはあります。