2019チュニジアの旅(其ノ一)

2月6日、成田空港を発ちドーハ経由でチュニジアの首都チュニスに向かった。

まえまえから旅してみたい国だったが、2015年3月18日バルドー博物館でテロ事件が起きて渡航警戒のレベルが引き上げられた結果パックツアーの多くが取りやめとなった。昨年の夏、たまたま見た旅行社のパンフレットでチュニジアへのツアーが再開されているのを知り、ようやく今回の旅行となった。

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チュニスチュニジアの首都そして経済、産業の中心地、その真ん中にあるのが旧市街メディナだ。周囲を東西800m、南北1600mの城壁に囲まれ、中心にはミナレットとグランド・モスクが建っている。これを迷路のような通りが取り囲んでいて、土産物や衣料品、食品などの市場(スーク)がかたちづくられている。

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七世紀、東ローマ帝国領だったチュニジアにアラブ人が侵入し、この地をイスラム世界に組み入れた。いまチュニジアイスラム世界にあって比較的穏健なソフトイスラムに属していて、繁華街のカフェバーでは昼間にビールを飲んでいる姿が見られた。

2010年から2012年にかけて発生したアラブ世界における民主化運動「アラブの春」のきっかけとなったのは2010年12月のチュニジアの「ジャスミン革命」だったから民主化志向は強いと思われる。

イスラム世界の風情がただよう旧市街メディナと新市街の境にあるのがフランス門だ。

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そしてこの門から新市街に出るとフランス植民地時代に形作られた、一見パリを思わせる街が現れる。

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1878年ベルリン会議で列国はチュニジアの宗主権をフランスに認め、これをうけてフランスはチュニジアに侵攻、1881年にはフランス領チュニジアとなり、この体制が独立を果たした1956年まで続いた。

ヨーロッパふうの街並は植民地時代の名残だが、観光という見地からするとイスラムの旧市街とヨーロッパ風の新市街がセットになった街はなかなか魅力的である。

はじめてチュニスという街を意識したのは1967年緑川アコが歌った「カスバの女」で(作詞:大高ひさを、作曲:久我山明、オリジナルは1955年エト邦枝の歌唱)、わたしは高校生だった。故国のフランスからアルジェのカスバにたどり着いた女が「明日はチュニスか、モロッコか」と行く末を歌う、いわばフランス人の女の「裏町人生」であり、フランスから流れてゆく先にある、かすかなパリの匂いや異国情緒に魅力を覚えたものだった。

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チュニスの南およそ140kmに位置するスースは人口約43万人、年間に訪れる観光客は120万人だそうだから、観光が一大産業の街で、地中海に面したリゾート地としても知られる。

七世紀にアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを征服し、その後、ノルマン人、スペイン、ヴェネツィア、フランスに征服されたが、アラブ風の街並は残され大きな観光資源となった。

旧市街(メディナ)には八世紀に建造された当地の最古の建物リバトとその隣のグランド・モスクを中心にスークと呼ばれる市場が広がる。

ここで自分用にTシャツを買った。この国では値札をつけないのがふつうで、店と客との交渉で値段を決める。チュニジアの通貨はディナールで、一ディナールはおよそ四十円。そこで店主に値段をたずねると四十ディナールと吹っ掛けてくる。日本ではそんなTシャツは超高級品だぜ、と値切りにかかり、ようやく二十四ディナールで手を打った。

近年公営の土産物店では値札をつけるようにしていて、ここで見たTシャツが二十四ディナールだった。気に入ったのがなくてスークのお店に出かけて、二十四ディナールで手を打ったのはこのいきさつがあったからだ。

ちなみに公営の土産物店のように値札をつけるのが合理的だと民間の商店でも値札をつける店がだんだんとではあるが出てきていると聞いた。

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