「ナチの高級売春婦」の実像~コリンヌ・リュシェール断章(其ノ三)

「嘗て、その美しさと特権によって、ドイツ占領者たちに讃美され、喝采をあびてきたフランス女優ーナチの高級売春婦・カリン・ルチア(コリンヌ・リュシェールの英語読み)は(中略)いまや“国家侮辱犯”として、判決を受けることとなった」

「一九三九年、彼女はその美しい容姿で注目され“格子なき牢獄”は世界的な成功をおさめ、フランス映画界に新風を吹きこんだ。当時のインタビューで“恋愛するには、私は若すぎる”と彼女は答えていたが、それはとんでもない大嘘だった。この時彼女は、既にれっきとしたオットー・アベッツ(駐仏ドイツ大使)の愛人だったからである」

「彼女の父は、娘の高級売春婦としての地位を誇りにし、利用していた男であった。彼はパリの新聞界にのし上り、二人は嘗てフランス人が味わったこともないような華やかな生活を送った」

「いま法廷にいる彼女にかつての美しさはまったくなく彼女の顔は結核と遊蕩に疲れ果てていた。判決が下りたとき、彼女は力なくつぶやいた。“私は幼なかったのに……何も悪いことをしていたなんて、気がつかなかったのに……“」

いずれも『コリンヌはなぜ死んだか』に紹介されている「ライフ」一九四六年六月二十四日号に載った記事で、フランスとおなじくコリンヌはアメリカでも忌まわしい女優であった。

これにたいし鈴木明はコリンヌとオットー・アベッツが愛人関係にあったという確証はなく、二人のツーショットの写真にもとづく悪意ある類推という見解をとっていて傍証も信頼するに足るとわたしは考えている。となると父ジャン・リュシェールが娘をナチス幹部に捧げ、その見返りを受けたとする事実も否定されなければならない。

ジャン・リュシェールは新聞社を経営し、対独協力者でもあり、戦後に銃殺刑を受けた。しかし対独協力の性格についてオットー・アベッツの一等書記官だったアッヘンバッハは鈴木明に、ジャン・リュシェールはオットー・アベッツとともにドイツからの狂信的な連中からパリを守る役割を果たしたのであり「いわゆるコラボレーター(利敵協力者)と呼ばれた人が処刑されたことは、フランスが戦後犯した最も大きな過ちの一つである」と語っている。

ジャン・リュシェールが創刊した「新時代」は対独協力を標榜した夕刊紙で、そのことにより彼はドイツ占領下のフランス言論界において大きな影響力をもつ存在であった。ジャンにはヨーロッパは一体であるべきという信念があり、それがナチスにたいする判断を甘いものにしてはいたが、ナチズムを信奉する人物ではなくユダヤ人の救出にも努めていた。

これには後年の大女優シモーヌ・シニョレの証言がある。彼女はジャン・リュシェールの事務所で秘書を務めていて、その回想録のなかで、事務所にはドイツ軍の横暴や略奪などに苦慮している多くのフランス市民が嘆願にやって来て、リュシェールはそのたびに親身になって相談に乗り、ドイツ軍との折衝に奔走していた、にもかかわら戦後の苦境のなか死刑宣告を受けたジャン・リュシェールにかれらはどれほどのことをしてあげただろうかと憤りを込めて語っている。

戦後、コリンヌの愛人とされたオットー・アベッツは二十年の刑を受けたが一九五三年に恩赦で釈放された。当時のフランス大統領ヴァンサン・オリオールはアベッツの手は少しも血で汚れていないと述べ自動車をプレゼントしたという。とすればアベッツのフランス側パートナーだったジャン・リュシェールが銃殺刑を受けたのは釈然としない。

鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』はコリンヌ・リュシェールの人生について検証する過程とその結果を叙述したノンフィクションであり、調査にあたったのは一九七八年と七九年だった。

この時点でコリンヌの母親と弟、オットー・アベッツの一等書記官だったアッヘンバッハたちは存命で、著者は可能な限り訪ねて面談しインタビューを試みている。関係者の声が拾われたのはいまとなれば極めて貴重で、これらの証言から著者は「ナチの高級売春婦」「国家侮辱犯」とは異なるコリンヌ像を提出したのだった。

異なるコリンヌ像をどう考えるかは人それぞれであり、そのために歴史学の研究成果があればと願うがいまのところそうした研究は目にしていない。

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