「紀元二千六百年の美貌はコリンヌ・リュシェールから!」〜コリンヌ・リュシェール断章(其ノ一)

一九三八年にフランスで製作されヒットした映画「格子なき牢獄」が日本で公開されたのは翌三九年十二月だった。この作品はわが国でもヒットし、主演の新人女優コリンヌ・リュシェールにたいする注目が社会現象となるほどの広がりをみせた。

詩人の堀口大學は「これは大した女優である」、評論家の河上徹太郎は「実に素晴らしく輝かしい」、画家の東郷青児は「又巴里が一つの新しい型を発見した」と絶讃した。

くわえて評論家の亀井勝一郎は「この一少女の容貌には長い文化の伝統のみがはじめてもたらし得る独自の美しさがある」「恐らく現代フランス女性の一番見事な典型」「私は映画における美貌といふことを改めて考へさせられた」とまでしるした。

明けて一九四0年(昭和十五年)は神武天皇即位紀元二六00年にあたっていて、下の写真にあるように「キネマ旬報」同年二月十一日号には「紀元二千六百年の美貌はコリンヌ・リュシェールから!」とのキャッチコピーがあり、紀元暦、奉祝行事とコリンヌ・リュシェールとのとりあわせはまさしく日本独自の熱狂を示していた。

鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』(文藝春秋、1980年)によると彼女のブロマイドの売り上げは十五万枚にのぼっており、これは「外国女優としては日本歴史始まって以来の記録」だった。

おなじく同書によると、この映画は全国二百二十六の映画館で上映され、その多くで四週間続映されており、当時の一本一週間という慣行からすると異例の措置がとられた。また開戦のあとも「望郷」「舞踏会の手帖」「巴里祭」などフランス映画の名作は細々ながら上映されていて「格子なき牢獄」もくり返し映画館にかけられていた。この時期のフランスは親ドイツのヴィシー政権だったからである。

あとで述べるように野坂昭如が敗戦直後にこの映画をみたのも再上映、再々上映の流れのなかでのことだったと考えられる。

なお、おなじ時期のブロマイド売り上げ二位は一九三七年に公開され、大ヒットした「オーケストラの少女」のディアナ・ダービン、三位はダニエル・ダリューで、河上徹太郎はこの三人を比較して、コリンヌの思春期の色気は、ディアナ・ダービンダニエル・ダリューのごとき濁ったものとは類が違うとまで述べていて、いくらなんでもふたりの女優には気の毒であった。

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